2014年9月18日木曜日

笑う音楽会

 

心地よく笑う。とてもシンプルなことなのですが、仕事や社交から国際問題に事件、事故のニュース・・ともすると鏡の中の顔は仏頂面で、はっとすることがあります。そんなわけで、意識的に「笑う時間」をつくっています。録画しておいたお気に入りのコント番組をみたり、落語や漫才、吉本新喜劇を観たり。最近の研究では、笑うと疲れにくくなる、癌になりにくい、胎教に良い、など様々な効用があるとのことで、その仕組みが科学的に調べられているそうです。

 

◎リズムと笑い
先日ある対談記事でザ・ドリフターズの高木ブーさんが「笑いにはそれぞれリズムってもんがあって、ドリフの笑いはバンドマンだからこそできる笑いだったんだ。」とか「(コントは)それぞれのリズムにこそ面白さがある。」(「FILT」Vol.70 シコウ倶楽部より)と言われていて、思わず身を乗り出しました。笑いのリズム。そうであれば、リズムつながりで音楽にも笑いがあるはず。

などと考えていてふと、コントユニット・ラーメンズの小林賢太郎氏がソロコントプロジェクトのポツネンとしてNHKの番組で披露していた「御存知!擬音侍 小野的兵衛」(ごぞんじ!ぎおんざむらい おのまとべえ)という、とても原始音楽的(?)なコントを思い出しました。タイトルからして一応時代劇コントなのですが、セリフは一切なくて映像と「ガラガラ」「ササッ」「ギロリ」「カチーン」「ムカッ」などの擬音語(オノマトペ)だけでストーリーが進行してきいます。時代劇に必須の殺陣シーンでは、なんと主人公侍の小野的兵衛と敵役は一切映らず、脇役だけが画面上にゾロゾロいます。視聴者は脇役のリアクションと擬音語で殺陣をイメージするのです。映像が旋律で擬音語が拍子といった趣きで、淡々としながらも間の抜けた擬音語の調子がなんとも可笑しく、ポツネン独特のタクトが効いていました。そして、これは音楽にとても近いコントかもしれないと思いました。

 

◎笑いの起源
何気なく「お笑い」などと呼んでいますが、笑いとは一体何で、どこから来たのでしょうか。調べてみると、れっきとした由来がありました。古代漢字の研究で有名な白川静氏によると「笑」という漢字は、巫女が両手をあげて笑いながら舞い踊り、神を楽しませようとする様子をかたどったものなのだそうです。日本各地で、神を祭った儀式歌舞に笑いが欠かせないものだったという例が数多くあることから、笑いは古代かなり重要な要素となっていたようです。「日本書紀」にも、古くから神に酒や土地の産物を献上する時には歌い、笑ったということが記録されています。

なぜ笑いを神に捧げたのかというと、それは古代の人々が最も恐れた自然現象の一つである雷に理由があります。民俗学者の柳田國男によると、雷とは「神鳴り」で、その音は天の神様の笑い声と考えられていました。地上の人々は、何よりも恐るべき目に見えない神を敵にしないよう、ご機嫌を取るために笑いを奉納し、安穏を祈りました。神という漢字の「申」は稲妻をかたどった象形文字からきているそうです。それにしても、神社ではお賽銭の小銭をなるべく派手な音がするようにたくさん投げるべしとされているし、拝殿には大きな鈴がぶら下がっているし、神楽では巫女が手に鈴を持って舞います。鈴の音を通して神とつながるそうですが、そこへさらに笑いもついてくる。こうして考えてみると、神と人との交わりは、目に見えない音が魂になっているようです。

 

画図百鬼夜行 木魅 鳥山石燕


◎日本最古の笑い話
笑い話の最も古いものは712年に成立した「古事記」に出てきます。あるとき、太陽のようにこの世を明るく照らす天照大神(あまてらすおおみかみ)という女神が、もめごとがあって天岩戸(あまのいわと)という場所に隠れて出てこなくなってしまいました。世を照らす女神がいないので世界は真っ暗闇に。さて困ったと八百万の神々が集まって悩んでいたところ、天宇受売命(あめのうずめのみこと)という女神がお立ち台の上にあがって裸踊りをし始めます。それを見た八百万の神々はどっと笑いました。その騒ぎを天の岩戸の中で聞いていた天照大神は、外の様子をちょこっと覗き見します。すると、戸の外側にいた手の力の強い天手力男神(あめのたぢからおのかみ)という神が天照大神の手を引っ張って外へ出し、岩戸の中に戻れないようにしました。天照大神が出てきたので、世界にはふたたび光が戻ってきました。そのとき光が神々の顔面を白く照らした、つまり「面」が「白」くなったということから、「面白い」という言葉が生まれたそうです。天宇受売命と言えば、テレビ番組「新婚さんいらしゃい!」でおなじみ、落語家の桂三枝師匠が二年前に「六代桂文枝」を襲名するとき、伊勢の猿田彦神社で導きの神様・猿田彦大神と芸能の神様・天鈿女命(あめのうずめのみこと)に「笑い奉納」をしたそうです。この天鈿女命が裸踊りをした女神、天宇受売命のことです。

 

◎音霊のゆくえ
こんなに大事で、歌と踊りと密接につながっていた「音霊」(おとだま)ともいえる笑いが、どうして古代から現代に至る日本の音楽シーンで連綿と発展して、吉本新喜劇のように幅を利かせていないのでしょうか。その背景の一つには、「音霊」の時代から「言霊」(ことだま)の時代に変わっていったことがあるといいます。

「音霊」の笑いと違って「言霊」の笑いは、古とつながって今に生きています。落語家の桂文珍師匠によると、平安時代の「今昔物語」や鎌倉時代の「宇治拾遺物語」などには、いまの落語のもとになったような話がたくさんあるそうです。また、古代の天邪鬼(あまのじゃく)が源流にある平安時代の芸能、千秋万歳(せんず まんざい)では「ボケ」役と「ツッコミ」役がちゃんとあって、「ボケ」役は真面目なセリフの意味を取り間違えることで笑いを取ります。まるで漫才コンビの「ナイツ」みたいです。このように「言霊」の笑いは、時空を超えてその面白さを共有しているのですね。

もし「笑う音楽会」がまるで寄席のように、なんばグランド花月のように日常にあったら、是非通いたいです。目には見えない「幸」や「福」。健やかな心と体をもたらしてくれるもの。笑いは、世の中の大勢が決めてかかる、おカタイ規則や形式、慣習を崩したり離れたりすることで生まれるといいます。ふたたび民俗学者の柳田國男の言葉をかりると「高笑いを微笑にしてくれる」笑いや「本当に静かで朗らかな生活を味わうための」笑いを音楽がもたらしてくれるとしたら、それはいったいどんな音なのでしょう。

“笑う門には福来る”。

 

[写真]
 ◎『画図百鬼夜行』より「木魅(こだま)」 鳥山石燕画 1781年頃
 出典:ウィキメディア・コモンズ Licensed under Public domain ISBN 4-0440-5101-1.
 日本では古来、神の末裔が妖怪とされ、各地に伝承があります。目には見えない音でやってくる神の一例がこの「木魅」(こだま)ではないでしょうか。「百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ」。百鬼夜行の画集を眺めていると、妖怪の姿はなんとなくチャーミングで、時に笑いを誘います。古の人々は、目に見えない八百万の神々への恐れをこのようなかたちにして笑うことで、得体の知れない恐怖とも心安らかに向き合うことが出来たのかもしれません。

 

[おすすめの音楽]

 ◎松平敬
  愛媛県出身の、声によるパフォーマー。バリトン。「バリトン歌手」「声楽家」という肩書では説明する側がすっきりしない、声による多彩な作品を演奏している方です。「笑い」にも、声作品の本質的な素材の一つとして向き合っておられます。初めて演奏会へ行ったのは10年以上前のことで、大変な衝撃でした。楽器としての声の自由度と色彩の無限の幅を思い知らされました。演奏会は驚きと心地良い笑いの連続です。変幻自在な声を操って、男から女へ、ノイズから音楽へ。言葉と意味と音と響き・・縦横無尽に繰り広げられる声の旅が約束されます。HPからは、彼のYouTubeチャンネルで様々なパフォーマンスを鑑賞することができます。
 *松平氏のデビュー作「MONO=POLI(モノ=ポリ)」は、つべこべ言わずにとにかく聴いて欲しいアルバムです。彼のたったひとつの声だけでソプラノからバスまでの全声部を歌い、多重録音して重ねに重ねられた恐るべき電脳アカペラアンサンブル。800年に渡る声の時空間を一挙にトリップします。キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に使われた有名な曲、リゲティ「ルクス・エテルナ」は16声部ですが、これも一人です。そして抜群の浮遊感を味わえます。アルバムまるごと一気に5分で試聴できます
 Amazon(CD)
 iTunes

 ◎パトリチア・コパチンスカヤ

  モルドヴァ出身のヴァイオリニスト。初めて彼女のパフォーマンスをみたとき、あっという間に恋に落ちてしまいました。舞台で裸足に赤いコスチュームを纏った姿は、どこか古代遺跡の壁画に描かれている楽師のような雰囲気。彼女の演奏において、古典作品と現代作品の区別をする意味はありません。時空を軽々と超え、作曲家が楽譜に描いた本質を表現してみせようとする熱意が音になって伝わってきます。このコラムの本文で、形式や慣習といった常識が崩れた時に笑いが生まれるということを書きましたが、まさにその体現者です。HPにパフォーマンスの映像がありますが、観客が好奇心いっぱいの微笑みを浮かべて、まるで言葉を知る前の子どものように、無邪気に笑う光景が目に入ります。一方で自由自在なパフォーマンスは、日本のクラシック音楽評論家たちから酷評されてもいます。評論家たちが不愉快になるのは、もしかしたら「あるべき」音楽の姿や基準がぶち壊されるとき、自分自身の積み上げてきた確固たる音楽史や音楽観まで崩壊してしまうことが恐ろしいからなのではないかと想像しています。それを自分で笑うか笑わないかが問われます。

 

[参考]

 ◎「ちくま日本文学015 柳田國男」柳田國男著 ちくま文庫
  *「笑いの本願」を参考にしました
  1875年兵庫県生まれの柳田は民俗学を深めて「遠野物語」などで有名ですが学問は本業ではなく、東大法学部を出てエリート官僚の道を歩みながら、一方で生涯民俗学の研究を続けた人です。

 ◎「落語的笑いのすすめ」桂文珍著 新潮文庫
  桂文珍師匠の慶應義塾大学での講義をまとめた文庫版。文字になっても語りの調子は充分に伝わり、面白くあっという間に読んでしまいます。

 ◎「笑いの日本文化」樋口和憲著 東海大学出版会
  古今の笑いに関する研究や書物が多数紹介されています(文献リストは付いていません)。

 ◎「笑いの世紀」日本笑い学会編 創元社
  日本笑い学会は20年前に設立された学会で、研究機関の専門家だけでなく一般人も学生も参加できるそうです。会員は1000名を超え、全国に支部があって活発な活動をされているようです。この本は学会設立15年目に出版されたもの。このコラムでは笑いと健康にまつわる部分を参考にしました。

 

[関連記事]

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」リズムは笑いとも切り離せないようです。

 ◎「永遠を刻む」
  旋律と時間を自由に操る名人であるインド音楽を取り上げています。「おすすめの音楽」でご紹介したヴァイオリニスト・パトリチア・コパチンスカヤの演奏を聴いていると、何故かインド音楽を思い出します。

 ◎「祇園祭の音風景」
  アジアの祈りの音「コンチキチン」。祭の音は、笑いと最も近いところにあるかもしれません。

2014年9月4日木曜日

言葉と音楽のあいだ

 

長い間、音楽を言葉で説明することができるのか、とか、そもそも音楽を言葉にする必要なんてあるのか、などということを考えていました。そしていったい、言葉と音楽はどんな関係なんだろう?と二つのあいだを行ったり来たり、悶々としていたのです。

そんな気持ちを吹き飛ばした存在が、20世紀を代表する長編小説、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」でした。あの、紅茶に浸したマドレーヌの味が一気に過去の記憶を甦らせる・・という場面があまりにも有名な小説。でも、フランス語原著にして3000ページを超え、日本語訳では400字詰め原稿10000枚にもなる長い長いお話であるとともに、一つの文もとてつもなく長い!ということで、実際には読んだことのない人や、途中で挫折したという人も少なくないようです。


◎「失われた時を求めて」が描くもの
「失われた時を求めて」とは、どんな小説か。100人のプルースト読者に聞いたら、100通りの答えが返ってくるかもしれません。それほどに多様な読み方ができる懐の深い小説なのです。私個人の読み方になってしまいますが、最も面白い要素の一つはきっと、ある時不意に幸せな気持ちになること、ある場所で突然何かを思いつくこと、ある事を目の前にして直感的に感じる「何か」のこと・・そんな色々な「なんとなく」のあらゆる理由を徹底的に、言葉で表現し尽くそうとしているところではないでしょうか。音楽を描いた部分も、美しい音楽を聴いた時の「印象」とか「気分」の裏側にあるものが深く追求されています。せっかくなので、音楽の描写を少しだけ(もちろん、一文が長いですが)ご紹介します。

 

“ソナタが百合のように白い田園ふうの暁に向かって開かれ、その暁の軽やかな純白のあどけなさを引き裂きながらも、白いゼラニウムの上の方で軽くしかもしっかりとまきついて伸びるスイカズラのひなびたアーチにからまるのに対して、この新たな作品は、海のように一様に真ったいらな表面の上で、雷雨の明けたある朝のしみとおるような沈黙と無限の虚空のなかに開始されるのであり、こうしてこの未知の世界は夜の沈黙から引き出されて、バラ色の曙のなかで少しずつ私の眼前に形成されてゆくのだった。” 

「失われた時を求めて」第5篇 囚われの女


菊月 香蝶楼豊国


◎架空の音楽
プルーストは、まるで巧みな盆栽家が樹木で景色を描くように、言葉で音楽を描きました。盆栽家は、未完成の木に別の枝を継いで根付かせて、新たな魅力を開花させます。そして、その樹木がいずれミクロコスモスになるようにと、手を入れていきます。同じようにプルーストは、ベートーヴェンやワーグナーなど実在する音楽家の音を小説の中に散りばめながらも、ヴァントゥイユという名の架空の音楽家を「別の枝」のように登場させて、新たな音の宇宙をつくろうとしました。ヴァントゥイユは架空の音楽家なので、読者の誰にも音の記憶がありません。だから、言葉で音の記憶を新たに形作ることができます。不思議なことですが、例えて言えばベートーヴェンたち偉大な音楽家の音に丹念に言葉を継いで、ついに根付かせることに成功し、とてつもなく美しい音の花が咲いたようなものです。でも、言葉だからこそ描けた理想の、架空の音楽です。


◎言葉から音楽へ
プルーストよりも9歳年上で親交のあった音楽家ドビュッシーは、同じことを音楽の方から考えていたようです。あるときドビュッシーは師から「どんな詩人だったら、君に詩を提供できるのか?」と尋ねられて、こんなふうに答えています。「ものごとを半分まで言って、その夢に私の夢を接ぎ木させてくれるような人です」言葉に音を継いで根付かせる、という逆の道も、そしてその実例もあったのですね。


◎「あいだ」を旅する
こうして私は言葉と音楽のあいだで行ったり来たりすることが悶々としたものではなく、甘美なひとときになる可能性を秘めていることを知りました。おしまいにまた一つ、お気に入りの一節をご紹介します。「旅」にまつわるとても人気のある部分で、以前旅行会社HISのフリーペーパーでも引用されていました(かなり短くして)。*文中のエルスチールとは、ヴァントゥイユと同じく物語の重要人物で、架空の画家です

 

“ただ一つの本当の旅行、若返りの泉に浴する唯一の方法、それは新たな風景を求めに行くことではなく、別な目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙を眺めること、彼ら各人の眺める百の世界、彼ら自身である百の世界を眺めることだろう。そして私たちは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。私たちは文字どおり星から星へと飛びまわるのである。”

「失われた時を求めて」第5篇 囚われの女

 


[写真]
 ◎「風俗吾妻錦絵」から菊月 香蝶楼豊国(四代目 歌川豊国)画
 「失われた時を求めて」の世界は19世紀末から20世紀はじめのパリ。ヨーロッパではちょうど「ジャポニズム」の時代と重なります。そうした背景から、小説の中には「キモノ」「ムスメ」など日本の事物を描写した場面が出てきます。中でも印象深いのは菊の花です。魅惑的な女性を純白の菊に、サロンの調度品に使われている絹は淡いバラ色の菊に、秋の夕靄に沈む太陽がつくる華やかな空は銅色の菊に・・思いもよらない菊の花のたとえが次々あらわれます。菊は19世紀後半にイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンによって園芸花盛りの江戸からヨーロッパに渡り、各地でさらに改良されていきました。プルーストと親しい貴族の邸宅では畑和助という日本人庭師が雇われており、本格的な日本園芸が評判を呼んでいたそうです。浮世絵や漆器などと共に語られることの多い「ジャポニズム」は、美術工芸だけでなく幅広い文化や慣習、世界観にまで深く入り込んだものだったといいますが、植物文化もまた、芸術家たちに大きなインスピレーションを与えていたのですね。
 出典:国立国会図書館デジタルコレクション


[おすすめの作品]
 ◎「レイナルド・アーン ピアノ曲集」ロール・ファヴル=カーン プロピアノ(キングインターナショナル)
  CD / MP3  *あいにくCDは再入荷の見込みなしということですが、全曲視聴可能です
  レイナルド・アーンはプルーストの親友。パリでサロン音楽家として、また舞台音楽や指揮、パリ・オペラ座の音楽監督としても活躍した人物です。このアルバムはブルジョワのサロン・ムードたっぷりで、上流社交界の人々の間で親しまれた絵画、音楽、文学などの流行が巧みに反映され、きっとオシャレなサロンの通たちを沸かせたことでしょう。クールな演奏がよく似合っていると思います。


[参考]

 ◎「抄訳版 失われた時を求めて」全3巻セット マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳 集英社
  *本文引用部分
  巨大な作品の重要な場面を抜き出して粗筋でつないだコンパクト版。はじめは邪道ではないかとも思いましたが、手にとってしみじみと、翻訳者鈴木道彦氏の「みすみす20世紀最高の作品を手に取ることなく終わるくらいなら、せめてこの3冊を繙いていただきたい」「さらに『失われた時を求めて』の全体を読もうという気持を読者に与えるものであってほしい」という強い思いと情熱に深く共感しました。旅先へのお供に良く、お気に入りの場面を気紛れに開けばあっという間に時空を越えた記憶の旅に出られます。そういえば、私は新婚旅行にも持って行きました。全訳版は個人による2大訳が長年読まれてきましたが、近年新しい訳も2つ出始めています。

 ◎「日仏交感の近代」宇佐美斉 編著 京都大学学術出版会
  *菊の花の錦絵に付けた[写真]コメントの参考にしました
  近代フランスと日本の交流がどのような創造的成果をもたらしたのかを、各分野の専門家が文学、美術、音楽の領域を横断して考察。

 ◎「音楽家プルースト」ジャン=ジャック・ナティエ著、斉木眞一訳 音楽之友社
  プルースト作品を音楽で解く一冊。音楽ってなんだろう、言葉ってなんだろうという漠然とした問いにたくさんのヒントを与えてくれます。著者は音楽記号学という学問分野の先駆者で、音楽と言葉の関係をめぐる問題を研究テーマの基本にしているそうです。

 ◎「プルーストと音楽」藤原裕著 皆美社
  文章全体がプルーストや当時のフランス文学世界のムードを色濃く醸し出していて、心底「プルースティアン」に浸ることのできる一冊です。あいにくAmazon含め、入手できるところを見つけることが出来ませんでした。

 ◎「プルーストの花園」マルセル・プルースト著、マルト・スガン=フォント編・画、鈴木道彦訳 集英社
  物語の中で重要な役割を演じる花々の美しい画集であり、詞集でもある大型のアルバム。季節ごとに花と詞を眺めて楽しむことができます。

 ◎「プルースト 花のダイアリー」マルセル・プルースト著、マルト・スガン=フォント編・画、鈴木道彦訳 集英社
  「プルーストの花園」と同じくプルーストの花と詞のコンパクトな本。「ダイアリー」のタイトル通り自分の言葉を書く欄があります。

[関連記事]

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」プルーストが言葉で紡いだ音楽には、彼独特のリズムが宿っています。

 ◎「永遠を刻む」
  プルーストは「記憶」を行き来してトキを自由に操り、意識を頑なな時間から解き放ちました。「永遠を刻む」では、同じく時間を自由に操る名人であるインド音楽を取り上げています。

 ◎「恋の音楽」
  「失われた時を求めて」でも大きなテーマとなっているものの一つ、恋。ここでは、やまとことばと日本の古典音楽で恋を辿ってみました。

 ◎「深呼吸と音楽」
  プルーストは海からも大いにインスピレーションを受けて言葉を紡いだそうです。海のリズムと、かつて魚だったヒトのつながり、そして宇宙との切っても切れない関係について書いています。