京都で生まれ育って東京、そして名古屋に暮らして感じるのは、同じ日本国内でも街によって「時の流れ」が思いのほか異なるということです。特に京都時間と東京時間では大きな違いがあって、東京暮らしを始めてしばらくはしっくりこないものでした。
◎京都時間
一つ印象深いエピソードがあって、東京のある企業に勤めている東京人の知り合いが「京都でひどい目に遭った」というお話です。いつかその方が、仕事で京都の名家と一緒に大きな催しを手がけられたときのこと、当然のことながら最初の打合せに企画書と共にスケジュールをお持ちしたそうです。すると、名家の方がいきなり「こんなもん、要りしまへん。」そのままピシャっとスケジュール表を却下されてしまったというのです。その方は慌てて「でも・・当日の行程表がないと、何かあった時に困りますので・・どうしましょうか・・?」と言うと、名家「そら、塩梅ようしはったら、よろし。」以上で打合せは終わり、催しの担当者は当日を迎えました。東京側の担当者たちは終始手に汗で、最後まで生きた心地がしなかったそうです。「京都人とはもう二度とやらないぞ!」と固く誓っておられました。結果的に、催しは「塩梅よう」まとまったらしいのですが・・。
さすがにこれは極端な例で、現代の京都人が皆揃って「名家」ではありませんが「塩梅」を重んじる、という価値観は京都人共通のものかもしれません。こんな「京都時間」をカラダで知る私が度肝を抜かれたのは「インド時間」と出会った時でした。
◎インド時間
それは、東京で行われた日印国交60周年記念のあるシンポジウムでのことです。私は事前に各登壇者の専門とテーマを確認して、特に興味のあるものは関連の書籍などを読んでから楽しみに出掛けたのですが・・当日行ってみると、何と登壇者の半分以上が別の方に変更され、テーマも予定されていたものとは違うことをそれぞれが好きなように話し始めます。さらに驚いたのは、インドの人たちの時間の感覚です。一応各人に与えられたスピーチ時間があるのですが、誰もそれに構う人はおらず、熱弁をふるい出したら止まらないのです。途中で熱くなって歌い出す登壇者に合わせて会場のインド人たちも歌ったり拍手したり大盛り上がりで、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」の世界そのままです。結局、夕方の5時過ぎに終わるとパンフレットに書いてあったシンポジウムが終了したのは、なんと夜の9時過ぎ(!)。さすがの京都人も敵ではありません。その後はさらに宴があるということでしたが、お昼すぎから続いた熱弁大会で7時間以上を過ごし、すっかり消耗してしまった私はあえなく退却しました。おそらく宴は朝まで続いたのでしょう。
それから数カ月後、懲りずに今度はインド音楽の会に出掛けました。タブラという古い太鼓とサントゥールというこちらも古い弦楽器とを組み合わせた演奏で、私にとっては初めてのインド音楽の生演奏でした。CDではインド音楽を聴いていたので少し知っているつもりでしたが、実際のインド音楽はそれよりも遥かに自由な時間が流れていました。よく言われるように、いつの間にか始まって、いつ終わるともわからず、いつの間にか終わる・・といった具合で、聴いているうちに時計の針で刻む時間の感覚は完全に失います。ちなみに、こちらの演奏会は会場の閉鎖時間がしっかりと決まっていたのと、サントゥール奏者が日本人だったので(?)、比較的きちんと終演時間が守られました。後から知ったことなのですが、かつてインドで音楽会(メヘフィル、カッチェーリ)といえばオールナイトが普通、しかも主奏者と伴奏者の二人が最初から最後まで通し演奏をしたそうです。
◎インド音楽と時間
インドでは、音楽のことをサンギータ(Sangita)と呼ぶそうですが、この言葉はもともと声楽、器楽だけでなく舞踊や演劇を含むものです。シヴァ神はこれらの創始者とされています。その歴史は広く深く厚みがあり、遡れる最も古いインド音楽の文法の源は、遥か4500年前にもなります。
インドの音楽時間は、時計やメトロノームでは決められないものです。古代インドでは、音の動きは宇宙の動きを表すと考えられていました。宇宙の動きとは時間のことで、星々の動きは世界の根源です。特に北インドでは演奏に季節や時間の条件があり、これは古代の占星術をもとにしているそうです。また、音と森羅万象には繋がりがあり、生きもの、色、感情などが非常に細かくインド音楽の音のパターンに組み込まれています。これは以前「整える音楽」で取り上げた雅楽の理論ともよく似た関係で、興味深いです。
◎時を自在に刻む
インド音楽は、基本的にラーガ(旋律)とターラ(拍子)という二つの要素で成り立ちます。ラーガにもターラにも古くから伝わる文法というべきパターンがたくさんあり、組み合わせは無数にあります。
古代の聖者によると、ラーガとは「音列と旋律で飾られた特定の音の形式で、人の心を惹きつけるもの」。ラーガの語源はサンスクリット語のランジ(ranj)で「喜ばせる」といういう意味が根っこにあり、これが転じて「感情」「色」を指す言葉になったといいます。そのようなわけで、ラーガは「人の心を彩る働き」という意味をあらわします。
ターラとは周期的に反復するリズムのパターンで、インドの音楽時間の単位を示すものともいえます。その最も短いものがクシャナ(瞬間)と呼ばれる単位で、クシャナは「重ねあわせた100枚の蓮の葉を1本のピンで刺して」測るそうです。つまり、それほど短い時間だということのたとえです。クシャナは、仏教用語では「刹那」と呼ばれています。
奏者たちは単にラーガとターラの文法を守って演奏するだけでなく、錯綜したリズムと二つが織りなすパターンの応酬で芸と技を試します。最も洗練された演奏は、自然にあらわれる即興性と文法の厳密なコントロールの、絶妙な組み合わせで成り立つといいます。ただし、リズムのコントロールは必須条件であると同時に高度の極みでもあります。古来「時間に関する知識は無限であり、シヴァ神ですらその限りのなさを把握することができない」と言われています。
◎インド音楽と美
こうしてみるとインド音楽の謎は深まるばかりですが、実際まったく不思議なものだと思います。厳密で数学的な文法を持っていながらも演奏は極めて即興的で、何が飛び出すか分からない。聴衆のその場の反応こそが、インド音楽の集約的要素とも言われます。彼らは、時間の束縛から抜け出す方法を知っているのです。
インド人にとって美とは、芸術作品の主題から生じるのではなく、その主題によって表現されるものを感じる必然性から生まれるといいます。それは、理屈では説明がつかないインド音楽、メトロノームでは刻めないインドの音楽時間と繋がります。かつて文芸評論家の小林秀雄が「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(無常といふ事)と言ったことを思い起こします。論理で割り切れないもの。
◎永遠なるもの
インドの音楽時間を考えながらそのリズムに身を任せていると、なんだか「生と死、断絶と持続、絶対と相対、衆生と仏陀は本質的に同一のもので、対立は存在しない」という考えを理解したような心持ちになります。宇宙は本質的に同一である、ということを真に認識することは最高の叡智とされ、バーリ語でバーラ、漢字では般若といいますが、このような叡智に至るにも、音楽は重要な役割を果たしそうです。
このままではインドの音楽時間をうまく説明しきれていないかもしれないので、おしまいにインドの詩聖ラビンドラナート・タゴールの詩歌をご紹介しようと思います。ここにはまさにインド音楽の時間も音もことばも、永遠なるものへの祈りとなって、美しい絵画の色彩のように満ちています。
美しいヴィーナが鳴っている―――
清らかな蓮華のなかに、月影ふりそそぐ夜のなかに、
漆黒の闇のなかに、夜のほの暗さのなかに、
花の甘い香りのなかに リュートの音が聞こえる―――
愛に満ちて 鳴り響いている
心地よい拍子に 踊っている―――
太陽と星も踊り、川と海も踊り、
誕生と死も踊り、世と世の終わりも踊り、
信心深い心も踊っている 世界のリズムにかき立てられて―――「美しいヴィーナが鳴っている」より
[参考]
◎「インドの音楽」H.A.ポプレイ著、関鼎訳 音楽之友社
長い間、日本語で書かれたインド音楽の解説書といえばこの本だったそうです。初版は1921年、著者はイギリス人宣教師でインドYMCA同盟主事を務めた人です。面白いのは1966年に書かれた翻訳者の序文。「なお著者の経歴に関しては、目下カルカッタに問い合わせ中であるが、未だ返事が到着しないために、ここに紹介できなかったことを深くお詫びしたい」(本文より引用)初版からもうすぐ100年、未だに経歴不明のままなのです・・。
◎「インド音楽序説」B.C.デーヴァ著、中川博志訳 東方出版
著者のB.C.デーヴァはインド南西部にあるカルナータカ州バンガロール出身の研究者で、インド音楽の心理物理学、民族音楽学、楽器学を専門にしつつも自ら声楽家として活動。またインド音響学会やインド音楽学会の創設メンバーでもあり、インド政府の文化使節として東西ヨーロッパ各地を訪問したり、客員研究員として活躍したそうです。何より「インド人がインド音楽をどう捉えているか」を体系的に知りたい場合には最も良い本だと思います。翻訳者の中川博志氏は北海道大学農学部を卒業後にインドへ渡り、バナーラス・ヒンドゥー大学でインド古典音楽理論を専攻するとともに、声楽とインドのフルート、バーンスリーを学んで、日本に帰国後現在に至るまでインド音楽の演奏活動の他、アジア、日本の古典芸能の紹介を目的とした演奏会の企画制作を行っておられるそうです。中川氏も本のあとがきに書いておられますが、インドを源とする仏教の影響を大きく受けながら発展してきた日本の音楽文化を考えると、そこにはインド文化の色を見出すことができます。インド音楽を知ることは、日本の音楽文化の理解にも役に立つでしょう。
◎「タゴールの歌」ラビンドラナート・タゴール著、神戸朋子訳 段々社
*本文中で「美しいヴィーナが鳴っている」を引用しました
インドの詩聖でアジア最初のノーベル文学賞受賞者でもあるラビンドラナート・タゴールの歌が60篇収められたCD付きの本。生命、春、雨、夜、宇宙、大地、祈り、悲しみ、愛、永遠など、あらゆるテーマが歌ことばになっています。インド人による本、また世界中のインド関連本には、ほとんど必ずタゴールの詩の引用があります。翻訳者の神戸朋子氏はインド国立タゴール国際大学でベンガル語を学び、その後タゴールの直弟子に師事してタゴールの歌曲を学び、研究者となった方です。神戸氏とは運良く直接お話する機会があったのですが、タゴール国際大学のある「シャンティニケタン」という森の地名を呼ぶときには少し目を細めて、できるだけ優しく歌うように、愛しい人の名を口ずさむようにしておられたことが印象に残っています。
◎「インドで考えたこと」堀田善衛著 岩波新書
インド旅行記の古典と言われる一冊。1956年、著者は小説家としてアジア作家会議に出席するためにインドを訪問。その時の、思索の足あとをまとめたものです。日記のような、メモのような書きぶりと構成がユニークです。インドが秘める時間を越えた「永遠」について、西欧や日本と照らしながらしきりに考えを巡らせる場面の一つひとつが印象的です。堀田氏は、インドにいる間に足繁く音楽の催しに出かけたそうです。彼曰くインド音楽は「リズムではモダンジャズに似ていて、音響全体はなんとなくシェーンベルクの十二音階音楽を連想させる」。
◎「インド音楽との対話」田森雅一 青弓社
著者は学生時代からアジア諸国を旅し、雑誌などにフォトエッセイを執筆。この本では、インドを旅しながら演奏や楽器、インド音楽の歴史を実地で貪欲に学び、身を持って体験し、各地で見聞したことが様々丁寧に綴られています。
[おすすめの作品]
◎「ヴィーナの女王」ラージェスワリ・パドゥマナバーン ビクターエンタテインメント
南インドで古くから伝わる弦楽器、ヴィーナの魅力が堪能できる一枚。このCDの最も大きな魅力は、これが「録音のための演奏」の体裁でレコーディングされていないことが、演奏で充分に感じ取れる点です。奏者と録音スタッフは広い部屋で和やかにお茶を飲んだりおしゃべりを楽しみ、ゆっくりと一日を過ごしながら、興趣のおもむくままに演奏。その音が慎重に収録されています。まるでその場に招かれて一緒にお茶と音楽を楽しんでいるかのような、心地良い時が流れます。ちなみに、ヴィーナは芸術と学問の女神サラスヴァティが持つ楽器。日本の「琵琶」の語源とも言われています。琵琶は弁財天が持っていますが、弁財天のルーツはサラスヴァティです。
◎「タゴール・ソング」シャルミラ・ロイ 立光学舎
ラビンドラナート・タゴールが作詩、作曲を手がけた曲集。旋律、リズム、歌、声、伴奏の全てが調和して美しく、インド音楽の力を改めて強く感じます。歌は原語のベンガル語で歌われていますが、ブックレットには日・英の歌詞が掲載されています。
[関連記事]
◎「整える音楽」
雅楽の音とカラダ、方角、惑星や季節などとのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。
◎「リズムの本質」
「リズムの喜びはどこからくるのか」――そんな途方もないことを考えてみました。インド音楽を考える上で、リズムは最重要の要素です。
◎「良い音」
人はカラダのどこで音を聴くのか?この回では、人が皮膚でも音を聴いていることについて取り上げました。インド音楽はまさに皮膚で聴くべき音楽の筆頭格です。
◎「生演奏」
音楽と息について、また視覚以外で「みる」ことについて、生演奏を通して考えてみました。もともと奏者と聴衆の息の通った場を前提に「生演奏」されるインド音楽とも、大いに関係があります。
[写真]
◎インドの細密画から「Todi Ragini」 National Museum, Delhi
インド古典音楽は絵画とも密接に繋がっています。ラーガと呼ばれる調べにはたくさんの型があり、一つひとつ名前が付いていて、それらの世界が細密画によって表現されているのです。調べの型によって、絵柄や構成が決まっています。例えばこの「Todi Ragini」(トーディ・ラーギニー)の場合、魅惑的なラーガの調べによってあらゆる生きものが惹き寄せられる様子が描かれますが、この型は真昼に演奏されるべきものなので、風景画の中も明るく開放的です。ラーガの調べの型をあらわすTodi Raginiは、擬人化されて絵の中でヴィーナを奏でる女性の名にもなっています。彼女の奏でる調べに鹿はうっとりと聞き入ります。音楽家がTodi Raginiを演奏するときには、この細密画の景色全体を描き出さなければなりません。彼女の魅力、美しい衣、かすかな香と混じり合う花の芳香、そして調べが進むにつれて魅惑された動物たちのざわめき・・。さらに音楽家の描くラーガの情景に聴衆も参加し、ようやく一つの音楽になっていくのです。
出典:ウィキメディア・コモンズ
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