2014年7月26日土曜日

万葉植物をいける:茅萱・藪萱草/萱草・笹百合・紫陽花

 

本日は旧暦で水無月三十日、夏越の祓です。

夏越の祓といえば茅の輪潜りです。茅の輪潜りは、年の前半に積もった穢れを取り去り、煩悩を払いのけて身を清め、知恵を授かるという祓い事です。私自身、既に新暦の6月末に京都の松尾大社で茅の輪潜りをして、またその後にも大分の宇佐神宮へ行く機会があって茅の輪潜りをしたので、回数の問題ではありませんが、まず十分な清めの力をいただいたと思っているところです。茅の輪の左右には笹竹が立てられていて、さわさわと揺れる笹竹は秋の訪れを感じさせ、もうすぐ夏の土用明け、立秋も近いことを思い出しました。

そのようなわけで、今回の万葉植物で鍵となるのは茅の輪に使われている「茅萱」です。
※写真は先月入梅の後すぐにいけたものでなので、紫陽花なども含みます。

 

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◎茅萱(ちがや)
茅萱は万葉集の中に二十数首登場します。その中で次のような恋の歌があります。

 

戯奴がため我が手もすまに春の野に
抜ける茅花そ食して肥えませ

巻第8 紀郎女


「あなたのために春の野へ行き、私の手で摘んだ茅萱です。どうぞ召し上がってお肥りになってくださいませ」

この紀郎女の歌に対する大伴家持の返事が続きます。

 

我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる
茅花を食めどいや痩せに痩す

巻第8 大伴家持


「我が君に、私は恋をしているようです。せっかくいただいた茅萱を食べてもなお一層痩せていくばかりです」

紀郎女が「春野」と言うように、茅萱摘みの季節は春です。若草が15cmくらい芽生えたところを摘んでかじると甘いそうです。また、根茎は薬草としても活用され、止血、利尿、解熱の効果があるとされています。さらに、生長した葉は刈り取って縄やむしろになりました。

一方、茶花などの花材としては秋の花に分類されています。今回いけた茅萱のように綿状の穂となるのは秋で、これを鑑賞するからでしょう。

 

秋風の寒く吹くなへわが屋前の
浅茅がもとに蟋蟀鳴くも

巻第10 作者未詳


「秋風がうす寒く吹くとともに、我が家の庭の浅茅のもとで蟋蟀が鳴く」

浅茅は、茅萱の背丈の低いものを指します。


◎藪萱草(やぶかんぞう)/萱草(わすれぐさ)
中国では古くから、妊婦が萱草の葉を腰帯として結ぶと陣痛を忘れることができるとされ、その他にも憂いを忘れるおまじないに用いられてきたことから「忘憂草」という異名があるといいます。若葉、茎、根は食用にされてきました。先日いけた時に根の白い部分をかじってみたところ、無花果のごとき甘くしたたるような風味がありました。まだ若葉が出始めた頃の根が美味だそうで、酢みそ和えなどにすると良いと聞きます。中国の「延寿書」という書物には「この草の苗を食べれば人は陶酔したようになる。それ故に忘憂と名付けられた」などと書かれているそうなのですが、このなんとも魅惑的な甘い瑞々しさからそのような名前に至ったのかもしれません。最近偶然にも萱草の花芽を乾物にしたものに出逢いました。台湾の精進料理に用いられるそうで、薬膳スープにすると大変旨味があり、貴重なごちそうでした。

 

萱草わが紐に付く香具山の
古りにし里を忘れんがため

巻第3 大伴旅人

「萱草を私の下紐に付けるのは、香具山のある古い都を忘れようとするためなのです」

この歌は、大伴旅人が九州の太宰府に赴任し、奈良の都が思い出されて仕方がないために、それを忘れようと詠じたものと言われます。


◎笹百合
笹百合は日本原産の百合で、別名さゆりと呼ばれます。万葉集の中に出てくる百合は、関東地方で詠われたものでは箱根百合などの山百合系を指し、中部より西の方では笹百合系を指すとされています。笹百合は古事記に登場し、その伝承は今も奈良の率川(いさがわ)神社で三枝祭(さいくさのまつり)、ゆりまつりとして受け継がれているといいます。

 

道の辺の草深由利の花咲に
咲まししからに妻といふべしや

巻第7 作者未詳

「道ばたの草深い繁みに咲く百合の花のように、たまたま微笑んだからといって妻と決めないでください」

咲く百合を「花笑(=微笑み)」にたとえて、ただ微笑んだからといって妻と呼ばないでください、と女が非難の気持ちをこめて男から贈られた歌に返しています。この歌のたとえのように、百合は「笑み」をあらわす代表的な花です。

今年の初夏には「花笑み」の姿を一目見ようと、恵那峡の方にある笹百合の自生地へ出かけました。笹百合は大変繊細なので、近くにアスファルトの道などができてしまうと、太陽で高温になったアスファルトの熱が土を伝わって根を痛め、ついには枯れてしまうそうです。そのため、多くの自生地で笹百合が減少しているのだそうです。自生地の笹百合はまさに草深い繁みにゆらゆらと揺れて、いかにも花笑みの乙女の姿でした。

 

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◎紫陽花
古来、紫陽花というと額紫陽花のことを指し、万葉の人々は萼の内側に咲く藍色の小花が密生して満開になったときの鮮やかな藍色を愛でています。あじさいの「あじ」とは集(あず)が転訛したもの、「さい」は真藍(さあい)の縮まったもの。つまり、真の藍がたくさん集まったものが「あじさい」となります。

 

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを
いませ我が背子見つつ偲はむ

巻第20 橘諸兄

「紫陽花が八重に重なり集まって咲くように、末永く健やかであってください、あなたよ。紫陽花を愛でながらあなたを憶いましょう」

この歌のように「八重咲く」というのは今で言う八重咲きの意味ではなく、花が密集して咲くさまをいいます。古来「お重」や「十二単」など、重ねに美しさをみる文化がありますが、万葉の歌にも「八重」のように重ねの美が多く登場します。

 


夏越の祓の7日後は七夕です。新暦の七夕の頃はお天気に恵まれず天の川をみることは叶いませんでしたが、旧暦の笹の節句である文月七日(新暦8/2)の七夕に星空を期待しているところです。


[参考書]

「万葉の花」庄司信洲 学習研究社

「萬葉の茶花」庄司信洲 井上敬志 講談社

「茶花萬葉抄」庄司太虚 河原書店

「ハーブ万葉集」大貫茂 誠文堂新光社

「紀州本万葉集 巻第8」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第10」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第3」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第7」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第20」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

[関連記事]
 ◎「万葉植物をいける:桃・枝垂柳・山吹・嫁菜」
  桃の節句にいけたものです

 ◎「万葉植物:三椏」
  万葉植物の中でもなかなか実際に目にする機会のない「三椏(みつまた)」の花を、奈良の春日大社神苑 萬葉植物園で見つけました

 ◎「万葉植物をいける:菖蒲・杜若・山藍」
  端午の節句にいけたものです

[写真]
 ◎茅萱、藪萱草/萱草、笹百合、紫陽花
 ◎笹百合 撮影地:恵那峡

 

2014年7月23日水曜日

生演奏

 

先日、USTREAMの音楽番組「MUSIC SHARE」のライブに出かけました。女の子だけのユニット「惑星アブノーマル」の迫力ある生演奏を、本当にすぐ目の前でみることができ、贅沢なひと時でした。

ライブの魅力は、演奏する人と聴衆の「息が溶け合う」感覚にあると思います。これは、自宅のスピーカーで聴いているとあまり感じないものです。惑星アブノーマルの演奏中も、彼女たちの息の渦と一緒に「肚」の中に吸い込まれるような気分でした。


◎音楽と息
音楽と息には大きな関係があるといいます。ある心理学者の実験によると、もともと吸う息とはく息のリズムが合う者同士は、合奏時によりよく息を合わせることができるそうです。また、演奏家同士、元々の息のリズムが異なっていた場合には、演奏技術が高ければその「息の合わなさ」を克服して息の合う演奏がつくれるし、演奏技術が低ければ、ぎこちない演奏になってしまうという実験結果が出ています。

では演奏家と聴衆の息の関係はどうか、と考えてみると、もちろん様々な要素が関わるはずですが「息の交わり」が両者の間に生まれたときに、その場にハーモニーや快感が生まれるのではないでしょうか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・ハーピストに25歳という若さで就任し、ウィーン・フィル史上伝説のハープ奏者と言われる(しかも美男子)グザヴィエ・ド・メストレは、あるインタビューで興味深い発言をしていました。彼は、演奏家であることの醍醐味が「聴衆を手中におさめる感覚」にある、と言います。これはきっと、彼の意のままに聴衆の気を吸い込み、それを自らのエネルギーにして再びホールいっぱいに音を散りばめ、聴衆を包み込んでしまうことなのではないかと想像します。グザヴィエ・ド・メストレのような魔術師はさておき、元々息の合う演奏家と聴衆の間には、幸福な時間が約束されているのかもしれません。

余談ですが、息が合うとか合わないという話は、音楽だけでなくスポーツやビジネス、また男女の間にも当てはまりそうです。例えば、結婚相談所へ行けば相手に希望する項目を相談所に伝えると思うのですが(私は経験がなく詳しいことは分かりませんが・・)、その項目に「息のリズム」を入れてみてはどうかなと思ったりします。相性の良い人が思いがけず見つかるかもしれませんし、持続的・長期的な関係に向けた相性を占うときの「絞り込み条件」としてうまく機能しそうな気がします。

 

唐辛子


◎息で演奏する
2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を飾った辻井伸行氏の快挙を伝えるニュースが日本中に流れ、一気に話題が沸騰しました。コンクールの裏話に、彼は全盲で英語が話せないため、競技の際に一緒に演奏する人たちや指揮者は当初、どうやってタイミングを合わせようか心配した、という後日談があります。特に、出だしからいきなりオーケストラと同時にピアノの音を出す必要がある曲は、指揮者の動きが見えないのは困るだろうという話になったのです。

しかし、それは全くの杞憂に過ぎませんでした。辻井氏は、共演者の「息の音」を聞いてタイミングを合わせているのでした。演奏の後、指揮者が「視覚によるよりもはるかに容易なコミュニケーションがとれた」と述べていたのが印象的です。私も一度だけ辻井氏の生演奏を聴いたことがあるのですが、演奏の様子をみたときに感じたのは、彼が息を聞くだけではなく、読んでいること。そして、おそらく聴衆のざわめきや息遣いも聴いて、読んでいるのだろうということでした。

 

◎視覚以外で「みる」こと
辻井伸行氏がコンクールで優勝を勝ち取った時の武勇伝をテレビなどでみていて思い出したのは、江戸時代の優れた学者、塙保己一の逸話です。保己一は幼い頃に病で失明しましたが、学問の道を強く志して励み、ついに盲人の役職として最高位の検校となりました。その保己一があるとき講義をしていると、風が吹いてろうそくの火が消えてしまい、弟子たちが暗闇で慌てて騒ぎだしました。すると保己一は「眼が見えるというのは不自由なものですね」と言ったそうです。

生演奏に限らず、様々な場面で「息」をみたり感じたりすることで、また違った発見がありそうです。

 

[参考]

 ◎「息のしかた」春木豊、本間生夫 朝日新聞社
  呼吸の仕組み解説からはじまり、呼吸と心の関係や呼吸が心に及ぼす効果、さらに呼吸と人間関係についての話が易しく紹介されています。また、能、武道、ヨガ、スポーツなど各方面の専門家がそれぞれの呼吸法について述べている章もあり、大変興味深いです。

 ◎「心理学的考察 いきが合う」古浦一郎 北大路書房
  合奏における息の合う合わないに関する実験の他、日本舞踊や書道、武道の呼吸についての実験結果も紹介されています。


[関連記事]

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?この回では、人が皮膚でも音を聴いていることについて取り上げました。


[写真]
 ◎唐辛子
 最新の研究によると、相性の良い隣の植物の音を「聞いた」植物は、単独で生えているときよりもよく育つのだそうです。唐辛子にとってバジルは「良き隣人」で、そばに植えるとより早く発芽し、健やかに生長。一方、ハーブの一種であるフェンネルなどの「悪しき隣人」に囲まれたときにもそれを認識し「互いに影響し合っている」というデータが。植物には様々な「感覚器」があることが証明されているようですが、人間と同じように息が合うとか合わない、という関係もあるのかもしれません。
 (参考:National Geographic News 2013年5月8日

 

[音楽番組MUSIC SHAREのライブの模様はアーカイブで観ることができます]
 惑星アブノーマルのライブ&トークの他に、同じく女の子だけのユニットCharisma.comのトークもあります
 
 ◎惑星アブノーマルHP
 見た目は少女の面影を残す女の子たちのユニットですが、音が出た瞬間にその印象が吹き飛びました。

 ◎Charisma.comHP
 *YouTubeに投稿した動画が話題を呼び、デビューした二人。POPなようでいて毒のある歌詞が持ち味です。

2014年7月9日水曜日

祇園祭の音風景

 

“コンチキチン”。京都では、祇園祭の7月に入るとお囃子の音が山鉾町の界隈に響きます。今年の祇園祭では49年ぶりに「後の祭」が復活、また、1864年の禁門の変で多くを焼失して以来巡行に出ていなかった船鉾が、150年ぶりに「大船鉾」として復興するとあって、ひときわ賑わうことでしょう。

私が生まれ育ったのは京都でも「洛外」に位置する嵐山方面なのですが、6月にもなると「もうすぐ祇園さんのお祭どすなあ」という時候の挨拶が街のあちらこちらで交わされ、少しずつ祭の気分が高まっていくのは街の中心地と同じ。中学、高校生の頃は学校でも「祇園祭、もうすぐやなあ」「宵山、どうする?」と皆、楽しみにしていました。そして、気になる子をデートに誘う方便として、祇園祭は格好の催しなのでした。

今回は祇園祭の“コンチキチン”をテーマに、京都の音風景を旅してみようと思います。種としたのは「平安京 音の宇宙」という本です。著者の中川真氏はジャワガムラン・アンサンブル「マルガサリ(MargaSari)」の代表で、サウンドスケープ、民族音楽の研究者、大学教授として活動されている方です。「平安京 音の宇宙」は初版が1992年春、そして私の読んでいる増補版はちょうど今から10年前の七夕の日に発売されました。


◎祇園祭、1000年を超える歴史
祇園祭の由来は、最も古い記録としては863年の御霊会という怨霊を鎮魂する儀礼に遡るといいます。当時は平安京のあちらこちらで催されていたそうですが、後の祇園祭に直接つながる祇園御霊会は869年に催されたもので、日本66カ国にちなんだ66本の鉾を立てて祭神を祀り、京の男児が神泉苑という庭園に霊を送ったのが始まりとされます。その後、応仁の乱で33年間の中止があったり、江戸時代の大火で多くの山鉾を焼失したり、さらに太平洋戦争で中止となったり・・様々な困難がありながらも町衆の力で連綿と続き、今日に至っています。

檜扇 本草図譜


◎“コンチキチン”という呼び名
「平安京 音の宇宙」で面白いのは、祇園囃子の音が何故、笛の“ピーヒャララ”でも太鼓の“テレツクテン”でもなく、鉦の“コンチキチン”と呼ばれているのか、という素朴な疑問に深入りしていくところです。ところが、祇園囃子の歴史と起源を考証するための資料は非常に少ないのだそうです。


◎祇園囃子の鐘の声
“コンチキチン”の囃子方は、鉦、締太鼓、能管(笛)という編成です。江戸時代に描かれた屏風や図会などを見ても同じで、少なくともこの頃は現代と同じような音響でお囃子が鳴り響いていたと考えられるようです。一方、祇園囃子の鉦と同じような楽器は、雅楽でも鉦鼓と呼ばれ、現在も奏でられています。また、有名な一遍上人の踊り念仏でも、鉦と同じ形のものが法器としても用いられていたことが、当時の絵図からわかるといいます。

古代日本では、管・弦・打楽器が祭祀などに使われていたことが判っていますが、中でも銅鐸などの金属器が儀礼で特別な機能を果たしていたことが明らかになっているそうです。それは、金属精錬の高度な技術をもつ鍛冶師が神と同等の存在とみなされたことや、金属楽器の発する音量と音色、そして余韻といった独特の性質が重なって、金属質の音が超自然との霊的な交わりを可能にする存在になっていったことが背景にあると考えられています。梵鐘はその象徴的なものです。

“コンチキチン”という言い慣わしは、古来人々の心奥に潜む金属音への意識が反映され、受け継がれてきた結果ではないか。そこには祇園会という儀礼に対する根源的な考え方が表明されている、と中川氏は言います。


◎アジアの“ゴングチャイム文化”
銅鐸をはじめ、金属の優れた精錬技術は南方の渡来人によって日本にもたらされました。その南方、とりわけ東南アジアを中心とする地域では、金属の「楽器」としての機能が大きく発展し、音楽がつくり出す時間軸には共通点があるといいます。それは螺旋状に円環する時間構造で、似たような旋律やリズムのパターンが延々と繰り返される音の世界です。様々な金属楽器類の複雑で洗練された音楽と儀礼の融合した文化は、楽器名にちなんで「ゴングチャイム文化」と呼ばれているのだそうです。中川氏は、ゴングチャイム文化圏の南端をバリ、ジャワのガムランだとすると、もう一方の端に、やはり音楽と儀礼が深く関わる祇園囃子の“コンチキチン”がある、と推測しています。

周期性や反復という音楽形式はインドの古典音楽なども思い起こしますが、金属音が超自然的な作用を生む、という意味付けは古代中国に源をもつ青銅器、鉄器など金属器文明の発達した東アジア的文化の産物と見られるのだそうです。


◎遙かなる祇園囃子の音
確かに、宵山で祇園囃子を間近に聴くと、めくるめく音の渦に巻き込まれてしまいそうになります。特に最も人の集まる四条烏丸の交差点では、林立するビルに“コンチキチン”が反響して、しかもそれが夏の京都の猛烈な蒸し暑さと一緒になって、南の島の熱気とガムラン音楽を思わせます。祇園囃子は「雅び」とか「優美」とはちょっと違うのかもしれません。

祇園囃子が格別日本的なものでも京都的なものでもなく「汎アジア的」な音で、はるか海を越えたジャワやバリのガムランの音と、根っこの部分で繋がっている・・アジアの祈りの音が、京都の街々に響き渡っている・・そう考えると“コンチキチン”が、定型の「京都らしさ」からふわりと離れ、その奥に秘められていた遙かなる音の風景を描き始めます。

ともあれ、祇園祭は水を清める水無月祭。そして水の災いは古の出来事ではありません。この夏、どうぞ水が静かに清められますように。


[参考]
 ◎「[増補]平安京 音の宇宙 サウンドスケープへの旅」中川真 平凡社
  物語のはじまりはニューヨーク、マンハッタンの一角に現れる15世紀ニューヨークの森。この小さな森は「TIME LANDSCAPE(時の風景)」という名のエコロジー・アート作品で、植民地以前のニューヨークの原風景を再現するアート・プロジェクトです。中川氏はこの作品に刺激を受け、自らが暮らす京都の原風景を求めて、下鴨神社に広がる原生林「糺の森」へ足を踏み入れ、この森に響く音の風景から音の宇宙へ、コスモスからカオスへと、サウンドスケープの旅をすることになります。

[祇園祭の情報]
 ◎京都新聞 祇園祭特集
  祇園祭にお出かけになる際に役立ちます。

[関連記事]
 ◎「沈黙の音楽」
  モンポウのピアノ曲「沈黙の音楽」と鐘の音について書いています。

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?というお話の中で、ガムランのことも引き合いに出しています。

 ◎「整える音楽」
  音とカラダ、方角、惑星や季節などとのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。ちなみに「平安京 音の宇宙」の本文中でも触れられていますが「金属音」は西方、つまり浄土とつながっているところにも、古の金属楽器に込められた意味がありそうです。

[写真]
 ◎檜扇の花
 祇園祭の花、檜扇(ヒオウギ)。古来、邪気払いの花とされてきました。祇園祭の時期には、山鉾町界隈の多くの玄関先におまじないの檜扇が飾られています。葉はその名の通りまるで扇のような形。秋に漆黒の実を結び、深い艷やかな黒色は古代中国の神話に神の使いとして登場する黒鳥になぞらえられ、「ぬばたま」という呼び名で、漆黒の霊力に恋の想いを託した多くの万葉の歌の枕詞となっています。
 出典:「本草図譜 巻20」岩崎常正 本草図譜刊行会
 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能