音楽の快楽について語るとき、私たちは何気なく「リズム」という言葉を使います。でも、いざリズムの意味を明確に把握しようとすると、意外に簡単ではありません。「リズムの喜びはどこからくるのか」――今回は、そんな途方もないことを考えてみました。
「リズムの本質」という本があります。著者はルートヴィヒ・クラーゲス、1872年ドイツ・ハノーファー生まれの哲学・心理学者で、筆跡学を確立した人物です。
クラーゲスは、リズムについて考えるとき、同じような意味で使われている「拍子」(タクト)という言葉が異なる由来をもち、本質的に対立するものだということを前提として知っておかなければならない、と述べています。
リズム(Rhythmus)は、ギリシア語のrheein(流れる)に由来し、文字の意味どおりに解釈すると、流れるもの。つまり、いつまでも続くもの。一方、タクト(Takt)はラテン語のtangere(触れる、突く、叩く)に由来し、もともと音楽において弦を一様に叩くこと、あるいは弾くことの意味で、打楽器によるテンポの符号として用いられていたといいます。
リズムの語釈から思い浮かぶのは、星の運行、明暗、めぐる季節、覚醒と睡眠のサイクル、潮の満ち引き、呼吸、生と死、トキの流れ・・宇宙や自然に宿る生命のリズムです。一方で「一様に叩く」というタクトの最たるものは、人工的に刻まれる「時間」ではないでしょうか。世界共通の時間軸であるグレゴリオ暦、仕事のスケジュール、学校の時間割・・。
では、音楽におけるリズムとタクトは、どのように考えれば良いのでしょうか。興味深いのは、人間の内には「拍子づけて誰かに聞かせずにはいられないモチベーション」が生きている、というクラーゲスの主張です。そこで私が想像するのは、一様で単調な「タクト」をモチベーションにまかせて刻み合ううちに、いつしか互いの呼吸や風のリズムと交わる瞬間。ふとした「タクト」が原初のリズムを呼び覚ますこと。音楽によるリズムの喜びは、こんなふうにして生まれてきたのかもしれません。
ところで、タクトの筆頭にグレゴリオ暦を挙げましたが、日本では明治6年の改暦まで独自の暦を用いていました。当時の「トキ」は季節によって伸び縮みし、夏は昼が長く、秋は夜が長い。今でも「短夜」「夜長」という言葉が残っている所以です。この暦はタクトとリズムの巧みな組み合わせでつくられていたと言えます。
音楽や文学、美術作品などに没頭して説明の出来ないような心の震えが生じたり、直線で刻まれている「時間」からふわりと離れて宙に浮いたような気分にとらわれたことは、誰もが一度ならずあるのではないでしょうか。こんな出来事も、作品のつくり手による洗練されたタクトが、絶妙にリズムと結びついた結果なのでしょう。
おしまいに、クラーゲスが「リズムの本質」の最後に記した詩の一節をご紹介します。これこそがまさにリズムの極致だと思います。
時間を永遠となし
永遠を時間となせば
自由となれよう
すべての争いから
[参考]
◎「リズムの本質」ルートヴィヒ・クラーゲス みすず書房
1923年に発表された論文が1933年にドイツで出版されて後に絶版となり、1944年に再版となったものが1971年に日本語訳で出版されました。
別の訳も出ています。
◎「リズムの本質について」ルートヴィッヒ・クラーゲス うぶすな書院
[写真]
ギリシア神話の五穀の女神デメテル(Demeter)
彼女の持つ「刈穂」は、種から種へと生まれ出て連綿と流れつながる生命のリズムそのもの。刈穂は「完成」の象徴として、古の儀式に用いられました。
出典:ウィキメディア・コモンズ
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