2014年5月28日水曜日

良い音

今回は、「良い音」という至って曖昧なことについて書いてみようと思います。

20代後半、私はクラシックとコンテンポラリー音楽のレコード会社で働いていました。録音・制作・販売までを一貫して手がけるそのレーベルで営業と広報を兼務していた私は、新しいCDの発売ごとに、録音エンジニアと連れ立ってオーディオ評論家のお宅を訪問していました。


◎オーディオ評論家の「良い音」
オーディオ評論家とは、各種オーディオ機器の性能を分析し、その結果を主にオーディオ専門誌で批評記事として発表する方々です。時には最新のオーディオ機器を揃えて試聴会を主宰したり、あるいはオーディオメーカー主催で行われるイベントで講演されることもあります。

私は批評家の方々にお会いするのを、格別楽しみにしていました。自分では到底手に入れられないような様々なオーディオ機器で再生される音を聴いて、自分なりに「良い音」とは何かを見つけたいと思っていました。彼らはみな個性的で、感性の軸が明確でした。

数千万円するギラギラした外見の機材でジャラジャラした音を出すことを好む方、カーオーディオの可能性を追求する方、コード機器類のフェチで音の一側面だけをフォーカスし、音楽には全く興味を持っていない方、理想の音を求める一心で、ついには自分で録音マイクを持って世界中を回っている方など、色々です。そういう方々に向けて、録音エンジニアと私とで、自分たちの作り上げたアルバムの音が何を理想としたのか、音楽作りの背景をお伝えしていました。ひとしきりプレゼンタイムが終わった後、いよいよ新作を再生させてもらうときが最もドキドキする瞬間で、いつも興奮しました。

一番緊張しているのは録音エンジニアだったかもしれません。スタジオやホールでマイクをセットしたり、アーティストの方と念入りに音のバランスをチェックしたり、録音後の音をディスク音源に仕上げたりする一連の試行錯誤の結果、パッケージとなった音がどう再生されるのか。ある批評家の方のお宅を訪問した後、彼は度々、描いた音が想像をはるかに超えて豊かに再生されて嬉しい、としみじみ話していました。同じディスクでも、人によって全く異なる音が再生され、音は人柄を表すことも知りました。


◎自分だけの「良い音」
オーディオ評論家にお会いするうちに、私もいつしか自分の好きな音を自宅で鳴らしてみたい、という思いが沸き起こり、何年もかけてお店巡りや視聴を繰り返し、ついに2年前に中古のオーディオ装置を手に入れました。コンセプトは「カラダごと全部、気持ちいい音」。色々視聴しましたが、装置によって非常に異なる音が鳴ります。高価な値段や示されている数値にもかかわらず、カラダに音が伝わらず手前の方で小さくまとまって鳴っているだけのものもあり、これは実際に視聴をしなくては分からないし、最後は自分の感覚を信じるしかない、と思いました。

それにしても「良い音」とはどんな音でしょうか?
私なりの結論は「良い音は、自分で決める」ということです。この答えの大きな理由は、音楽は耳でだけでなく、皮膚でも聴いているからです。皮膚は人間の最大の臓器です。他の多くの臓器は移植可能ですが、皮膚は他人のものを移植すると拒否反応が出るため、とてもプライベートで「私が私であること」を認識するための臓器とも言えます。「肌感覚」という表現がありますが、これは個々で全く違います。オーディオ評論家のお宅ごとに全く違う音が再生されたのは、このことにもよるのではないでしょうか。


◎皮膚は音楽を感じ、聴く
最近の研究で、皮膚には脳神経系で働く物質と同じものがあることが発見されました。皮膚の一番外側の「表皮」に高度なセンサーがあって、温度や湿度だけでなく、色や音をも感知して神経に伝えているといいます。今世紀に入ってから、脳で「学習」や「記憶」を担っている受容体が、表皮にもあることがわかったそうです。しかも脳と表皮は、生まれが同じ。表皮は「感じる」だけではなく「考えて」いるのかもしれない、というのですからとても興味深いです。

耳以外の場所で音が認識されている可能性を最初に指摘したのは、農学博士であるとともに民族音楽の研究者でもある大橋力博士のグループなのだそうです。大橋博士は山城祥二の名前で「芸能山城組」を主宰、大友克洋原作のアニメーション映画「AKIRA」の音楽を手がけるユニットとしてご存知の方もいらっしゃることでしょう。大橋博士は、高周波音が耳ではなくカラダの表面で受容されていることを実験、研究し、通常のDVDと、高周波領域の音まで入っているBD(ブルーレイ)では視聴者の感じ方が全く異なることも実際に確かめられています。

大橋博士の実験によると、インドネシアの民族音楽ガムランは、ライブではトランス状態になるけれども、圧縮されたCD音源ではトランス状態にならないのだそうです。その背景には、高周波音とそれを感じる皮膚の役割があるといいます。

TraditionalIndonesianInstruments

 

古来日本に伝わるお祭でも、笛や太鼓の鳴りものに合わせて、集まる人たちの掛け声と興奮が音のうねりの中で次第に恍惚になっていく様を、多くの方が見たり味わったりしたことがあるでしょう。ここでも、耳には聞こえない音を皮膚が感じているはずです。

コミュニケーション手段としての「スキンシップ」と「言葉」のどちらが先に生まれたのかは定かでないようですが、今ほど複雑かつ高度に言語が発達していなかった何万年も前、古の人たちはおそらく現代人よりもはるかに鋭敏な「肌感覚」があったことでしょう。

 

高周波音や低周波音を再生できる高解像度ディスク音源は多く出回っていますが、最近ではネット上で手軽に入手できる「ハイレゾ音源」もあります。ハイレゾ音源とは、ハイレゾリューション(高解像度)音源のこと。音楽CDを超える音質の音楽データのことで、情報量が格段に大きく、皮膚で感じることのできる音がたくさん入っています。

私は、高解像度で情報量の多い音源を「良い音」で再生する装置を手に入れる価値は、充分にあると思います。本当に、音は耳で聴くだけでなく、カラダで感じるものでもあるのです。ライブともまた違う、内臓にまで響く「音の気持ちよさ」を、多くの方に味わって欲しいな、と思っています。

 

[ハイレゾ音源の楽しみ方について]
 ◎ハイレゾ音楽配信を手がけるototoy社の解説ページ
  

[参考書]
 ◎「皮膚感覚と人間のこころ」傳田光洋 新潮選書
  
 ◎「賢い皮膚」傳田光洋 ちくま新書
  
 ◎「第三の脳」傳田光洋 朝日出版社
  
 ◎「皮膚は考える」傳田光洋 岩波科学ライブラリー
  
 ◎「皮膚という「脳」」山口創 東京書籍
  
[写真]
 インドネシアの伝統楽器
 出典:ウィキメディア・コモンズ

2014年5月16日金曜日

ウエサク祭と天道花

 

万緑、青嵐、甘露の雨。あらゆるものが輝くまぶしい季節です。

昨日は卯月(旧暦4月)の満月。インドをはじめスリランカやタイ、マレーシアなど多くの仏教国で釈迦の誕生、悟道、涅槃を祝う灌仏会の様子が、ウエーサーカ祭(Vesak Day)としてニュースなどでも話題になっていました。

日本でウエーサーカ祭というと、京都鞍馬寺の五月満月祭(うえさくさい)が有名かもしれません。5月満月の宵に清水を捧げて満月の力をいただきつつ、鞍馬寺の本尊とされる尊天に、すべての命が目覚めるようにと祈ります。

Wisteria

 

仏教が伝来する以前、日本には天道花(てんとうばな)という風習が近畿や中国四国地方の各地にあったそうです。天道花とは、長い竿の先に山躑躅や山藤、卯の花などの「山の花」を飾ったもので、農作業が始まる重要な月である卯月の田植え前に、豊穣を祈ったのです。「山の花」は山の神が宿る依り代。花を介して神と交わることができると考えられていたのですね。

京都大宮には天道神社があります。豊穣と子孫繁栄を祈願するために鎮座されたお社で、平安遷都以前には長岡京にあったそうです。毎年今頃には「天道花神事」が催されているのですが、これは桃山時代に狩野永徳が描いた「上杉本 洛中洛外図屏風」でもみることができるそうです。

その後天道花の風習は、仏教行事の灌仏会と習合して「花祭」になりました。

 

いずれにしてもこの活き活きとした季節、甘茶をいただくのもよし、山の美しい花々から生命力を分けてもらうのもよし。麗しい雨の中をお散歩するのにもってこいです。


[参考記事]
 ◎京都市産業観光局観光MICE推進室「京都観光Navi」

2014年5月14日水曜日

沈黙の音楽

 

静かな場所で集中したい、とか、誰にも邪魔されずに静寂な時を過ごしたい、と思うことは誰にでもあるでしょう。でも実際のところ、そんな場所はそう手に入るものではありません。早朝でも深夜でもざわめきはどこかに必ずありますし、「静寂であるべし」と強く念じれば念じるほど、かすかな物音やささやきはかえって増幅されます。


◎京都老舗名曲喫茶の「静寂」
京都出町柳に、老舗の名曲喫茶で「柳月堂」というところがあります。このお店は「静寂」を極限まで追求しています。私語厳禁はもちろんのこと、ペーパーおしぼりの袋を開く音をペリペリたてるのはもってのほか!なんと、ペーパーおしぼりの袋はハサミで静かにカットしなければなりません(お店の方がおしぼりと一緒にハサミを持ってきてくれます)。コーヒーカップを上げ下げするときやスプーンでのかき混ぜ時は細心の注意を払い、お手洗いに行くときも忍び足・・。ここまでやれば本当に「静寂」が実現できるかというと・・個人的には思いの外そうでもないなあ、と感じます。背後でかすかに動く人のわずかな衣ずれの音や、誰かがお店に入ってきた気配など、なにやら些細な事が気になって仕方がありません。たぶん、本当に静かな店内が実現されているはずなのですが・・。ともあれ、私は実家のある京都に帰省すると、よくお店を訪ねてお気に入りの曲をリクエストします。


◎「静寂」の音楽
静寂を感じる方法について考えていたら、ふと思い出した音楽があります。「沈黙の音楽」という曲です。スペイン、カタルーニャの作曲家フェデリコ・モンポウのこの曲は、とても短い28の曲からなる静かな音楽。オリジナルのタイトルは「Música callada」で、16世紀の詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの詩の一節からつけられたそうです。

 

静かな夜の
明け方に
沈黙の音楽
響く孤独
安らぎと愛の糧

la noche sosegada
en par de los levantes del aurora,
la música callada,
la soledad sonora,
la cena que recrea y enamora.

「霊の讃歌」サン・フアン・デ・ラ・クルス
“Cantico Espitual” by San Juan de la Cruz

 

 

モンポウは20世紀に活躍したカタルーニャの作曲家なのですが、この曲には「民族性」や「時代性」といったものは感じられません。タイムレスな音色が、まるで鐘のように響きます。

というのも、モンポウの母方の祖父は鋳造工場を経営しており、パリのノートルダム大聖堂やモンマルトルの教会に鐘を納品するほど由緒あるメーカーだったのだそうです。また、祖父の工場は音楽的音色を保証する唯一のメーカー。この祖父を慕ってよく一緒に過ごし、度々工場を訪れ、独特の雰囲気に浸ることを好んでいました。薄暗い中で火花を散らす機械、鋳型や模型を眺め、金属が共鳴する音を何時間でも聞いていたそうです。

そんなモンポウは、旋律よりもまず先に、響きをつくることに専念したといいます。鋳造工場にこもり、様々な鐘の音、その響きにある全ての音の研究に勤しみました。

 

CathedraleNotreDameDeParis

 

ヨーロッパの人たちが聴くと、モンポウの「沈黙の音楽」はまるで聖堂の鐘の音色のようかもしれません。でも、日本で生まれ育った私には、音の重なりに身を任せるうちに、いつのまにかお寺の梵鐘の響きのように聴こえてくるから不思議です。物語もなく、理屈もない、静かな音の響き。そういえば梵鐘って、このうえなく「静寂」を感じる音ではないでしょうか。

少なくとも「静寂」=無音、ではなさそうです。

 


[おすすめのアルバム]

 ◎フェデリコ・モンポウ:ピアノ曲全集
  作曲家本人による演奏です。全集なので、他のピアノ曲も色々楽しめます。

 

[引用・参考記事]

 ◎モンポウの生い立ち、音楽づくりの背景に関する部分
  福島睦美の地中海サロン 

 ◎サン・フアン・デ・ラ・クルスの詩の一節
  高橋悠治:沈黙の音楽(CD) のリーフレット

 

[写真]

 パリ ノートルダム大聖堂の新しい鐘(2013年2月)
 出典:ウィキメディア・コモンズ