節目ごとに、万葉集に登場する植物をいけています。
花をいけることで1000年前とつながる。と言っても、万葉集に出てくる植物とそれらに込められた寓意を知るたびに、古の人々が持っていた自然の知識の奥深さには遥かに及ばないことを思い知らされます。
“兆しをつかむ”
主としていけた桃は「兆す木」。中国から伝わり、邪気を祓うエネルギーがあるとされています。黒い桃の枝で「桃矢」「桃弓」「桃杖」をこしらえて用いたそうです。桃色の愛らしい花は「いづれ散るもの」とあまり頓着されず、むしろ若芽に宿る生命力こそ重要視されていたというのは面白いところです。桃の実は病人を癒やす薬と考えられていたのですが、いまでも桃を病人へのお見舞いの品とする風習は、ここから来ているのでしょうか。
“いつか結ばれる”
丸く結んだ枝垂柳。古代中国では恋人と別れるときに再会を願い、柳を折ったり結んだりして贈ったのだそうです。その習慣を万葉人が取り入れ、歌に詠み込んでいるのです。
“生命力をとりこむ”
嫁菜は、現在では栽培用の品種が「都忘れ」としてよく知られています。古くは若芽を和えものや吸い物にして、春の香りが食されてきました。
“亡き人の面影に”
植物の生態と歌ことばの意味には深い関係があります。
例えば、山吹(写真ではまだ蕾なのですが)を詠み込んだ歌。
山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく
巻二 高市皇子
「山吹の咲く山の清水を汲みに行きたいけれど、その道がわからない」
山吹の花の「黄」色と清水の「泉」で黄泉の寓意となっています。また黄色は土の色、黄土は墓を暗示します。
「黄泉」はあの世であると同時に、「“よみ”がえり」の世界でもあります。この歌では「黄泉の国へ行ってしまった人に会いたいが、道がわからない」と意図的に言っているのでしょう。「よみがえりの国」へきちんと送ることで、会いたい人がいつか甦ってくれることを願っているのです。
山吹は別名「面影草」とも呼ばれ、亡き人の面影を偲ぶ心もその姿に伝わります。そして風に揺れる姿からか、万葉集では「山振」の漢字が当てられています。古代、揺れるものに魂が宿るとされたのもなるほど、と思わされます。
たくさんの桃をいけ込んで、見た目にあまり洗練されたものではないのですが、山吹に黄泉の国へ旅立った方々を偲びつつ、桃にはいま生きる人たちが安らかでありますように、そして嫁菜には春の力をもらって無事に過ごせますように、との思いを込めました。結ばれた枝垂柳は再会の印であり、また命のつながりでもあるはずです。
[参考書]
「紀州本万葉集 巻第2」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能
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