2014年12月24日水曜日

演歌のルーツ

普段の話題にはあまり出てこないものの、「実は結構好き」という方が多いのが演歌ではないでしょうか。かくいう私も、時々TVで演歌の番組を観たりしています。


◎演歌とは
演歌とは、もともと歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応することばとして明治中期から使われるようになったのだそうです。演歌の内容は、自由民権論と呼ばれる人間の自由や平等、政治的な権利を求める政治思想です。人の集まる街なかで、演説がわりに歌われました。その後、大正末期には政治色のない演芸となり、街頭でバイオリンの伴奏にあわせて流行歌としてうたわれるようになって、昭和、平成の演歌につながっていきます。(参考:コトバンク)


◎演歌のルーツ、声明
演歌の声と音、響きに着目すると、そのルーツは遥か昔、奈良・平安時代に古代インドから中国を経由して日本へ伝わった仏教音楽「声明(しょうみょう)」に辿り着きます。声明とは、仏教寺院で法会の際に仏教僧が演奏する声楽で、仏典から抜粋した歌詞を唱えます。日本に伝わってからは真言宗や天台宗、曹洞宗など各宗派の寺院によってオリジナルの声明にアレンジされ、1300年を超えてうたい継がれてきました。「声明」という言葉はインドのサンスクリット語の漢訳で「声」=「言葉」、「明」=「知識」の意味です。奈良東大寺のお水取りで演奏される声明は毎年ニュースで取り上げられて有名ですが、多くの方がお寺のお堂から響く僧侶の声を耳にしたことがあると思います。最近は“お寺で朝ヨガ”といったイベントに声明が組み込まれているものも増えています。参加してみたことがあるのですが、身体の奥底から震えるような声の響きに身を任せると、大地と空の間でカラダが一体になって宙に浮いたような、心地良い気分になりました。


◎日本の声楽
実は、声明を起源とする日本の声楽は他にもあり、義太夫節や清元節などの浄瑠璃、能や狂言の謡などもそうです。これらはよく「お経を唱えているみたい」と評されますが、それもそのはず、仏典を声に出して唱える声明が先祖なのだから当然のことになります。

では、声明から演歌までを結ぶ日本のうたの本質はどこにあるのでしょうか。一般に西洋音楽の三要素がメロディ・リズム・ハーモニーであるのに対して、日本音楽の三要素は息・音色・言葉とも言われます。中でも私は「息」が要なのではないかと感じます。狂言師の野村萬斎氏は「気が声になる」、浄瑠璃太夫の七世竹本住大夫氏は「声ではなく息をぶつける」と言います。ちなみに、義太夫節には吐く息だけでなく吸う息の声もあり、さらに息を止める声も使うのだそうです。演歌をみてみると、例えば八代亜紀の「舟唄」のうたい出しなどは、ほとんど息だけで音、声になっていて、盛り上がりの部分では容赦無い小節や唸りがあります。

声の色も、日本のうたには独特のものがあります。声明や浄瑠璃、謡も演歌も、声を引き伸ばしたり揺らしたり上げ下げしたりして、声の色を自在に変化させます。それは楽器で言えば尺八のようでもあり、太鼓のようでもあり、また三味線のようでもあり、あるいは雨風の音や大地の響きのようでもあり、立体的な音の空間が声でつくり出されているように感じられます。

 

LargeBowlWithDesignOfTrumpetShellAndFishingBoatsLACMA


◎日本人の音楽観
なぜ、このような声のかたちが脈々と日本人に引き継がれ、好まれてきたのでしょうか?私は、日本人がどちらかというと「ことば」よりも「音」、そしてメロディよりも重層的な響きに美を感じるからなのではないかと思っています。うたわれるのはもちろん「ことば」なのですが、それをある「意味」として理解しようとするのではなく、音のまま聴き、音のままカラダに響かせる。音は、カラダの中で感情や心の根を生やしはじめる・・。

歌舞伎や能を観に行くと「意味がわからない」という人も多いのですが、いっそ声と音、舞台全体を取り巻く響きを直感的に聴いて、まるごと感じてみたらどうだろうか?と思います。カラダの中に秘められた感性や美意識が、何かを捉えるかもしれません。

 

◎日本のウタ
ウタというヤマトコトバは声明が輸入されるよりも前、日本の文字がつくられる以前からありました。もともとは声に出し、節を付けて自然の美しさや自分の感情を表現した作品のことを「ウタ」といったのだそうです。また、自分の気持ちをまっすぐに表現する意味という説もあります。面白いのは、演歌の歌詞の定番である男と女、涙、雨、海、別れ、夫婦(めおと、と読んでください)、望郷、北の抒情といった種は1300年前、奈良時代につくられた日本最古の詩歌集「万葉集」とまるっきり共通していて、古から変わらぬ感性と言えそうです。演歌を聴きながら、古代から受け継がれてきた声とウタの美学を感じてみるのも一興です。


◎クラブイベントで声明?
少し前から気になっている音楽フェスがあります。それは、仏教と音楽を軸にした「向源(こうげん)」というイベントです。「宗教」と聞くと気構えてしまいそうですが、このフェスは宗教・宗派の垣根を超え、寺院だけでなく神社も一緒になって開催しているとても自由なフェスとのこと。お香がたちこめるお寺でヨガや香道をしたり、精進料理を食したり、能や巫女舞に雅楽、そして天台宗青年僧らによる「天台声明」を味わったり。気軽に声明や雅楽などに近づける音楽フェスのようです。クラブイベントとのコラボ企画やDJ&ライブもあるらしく、ひととき寺社仏閣がディスコ化するとか(!)。今年の春は東京の増上寺で開催されたようです。来年のフェスには出掛けてみたいです。

 

[写真]
 ◎「白志野鉢 法螺貝と釣船」桃山時代 ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵
  出典:ウィキメディア・コモンズ
  法螺貝はインドを起源とする仏教の法具で、貝(バイ)と呼ばれています。仏教寺院では、聖なる音を奏でる楽器として古くから使われています。貝は仏の象徴で、その音は仏の説く教えの象徴でもあるといいます。息で音色を多様に変化させるのですが、古の口伝によれば息と一緒に気、心魂までも法螺貝の中に吹き込む勢いで吹かなければならないのだそうです。声明はこの法螺貝の音を声であらわしたもので、貝の音を口で奏でるというところから、漢字で「唄」と書きます。演歌の曲のタイトルに「舟唄」「恋唄」など、「唄」という漢字をあえて使っているものが多いのは暗示的です。古来日本で使われてきた「ウタ」というヤマトコトバに中国の文字を当てる際、結果として「歌」と「唄」が選ばれて今も何気なく使っていますが、歌でも唄でもなく「ウタ」といっていた頃の日本の声の響きに思いを馳せてみるのも面白そうです。

 

[参考]
 ◎「古典基礎語辞典」大野晋編 角川学芸出版

 ◎「若き古代」木戸敏郎 著 春秋社

 ◎「文楽」茂手木潔子 著 音楽之友社

 

[気になる音楽フェス]
 ◎向源
  声明のほか、ライブ、マルシェ、香、茶会など盛りだくさんの音楽フェスのようです。
  HP 
  FB 

 

[関連記事]
 ◎「笑う音楽会」
  音楽と笑いの関係を掘り起こしてみたら、古代にたどり着いてしまいました。

 ◎「生演奏」
  音楽と息の深い関係。生演奏の魅力を「音楽と息」という観点からお話しています。

 ◎「言葉と音楽のあいだ」
  言葉と音楽のあいだに秘められた甘美な時を求めて、プルーストの世界を覗きます。

 ◎「祇園祭の音風景」
  祇園囃子の“コンチキチン”から見えてくる音風景。

 ◎「音楽の色とかたち」
  日本のCD・レコード派の意識の奥底には、色とかたちに対する深い感性がありそうです。

2014年12月3日水曜日

音楽の色とかたち

 

◎アナログ・レコードの人気再燃?
この秋に人気ミュージシャン、テイラー・スウィフトが音楽のストリーミング配信サービスSpotifyから全曲削除することを発表して話題になりました。また、レディオヘッドのトム・ヨークはかねてSpotifyを批判し続けています。Spotifyのようなストリーミングをはじめ、ダウンロード、CD、ファイル共有など、音楽の聴き方や売り方が議論され続けている中、アナログ・レコードの人気が再燃しているともいいます。アメリカでは、2005年から2013年までの8年間で、アナログ・レコードの販売数が6倍以上に増えたそうです(「レコードが絶滅の危機から復活。売上が8年間で6倍以上に」The Huffington Post 2014年11月21日 )。


◎パッケージ派、日本
一方、音楽ダウンロードのシェアは約1割で、85%がCDで音楽を購入するというパッケージ派の日本(2013年、日本レコード協会調査より)、アナログ・レコード派も少なくありません。数年前に惜しまれつつ閉店した渋谷HMVは、今年の夏にアナログ・レコードとCDの中古専門店HMV record shop渋谷として生まれかわりました。

とりわけ日本でCDの販売が盛んである理由に、収集(コレクション)文化があるとか、日本の音楽業界は保主的だとか、色々言われています。しかし、私自身はもっと根本的な理由があるのではないかと考えています。そこで今回は、「音楽の色とかたち」という切り口で、日本人の奥底に秘められた音楽の享受のしかたを考えてみようと思います。


◎音と色
「音色」ということばは、音楽と色彩の強い結びつきを暗示しています。実際、古来日本で奏でられてきた雅楽には、旋律ごとに季節や森羅万象の他、象徴する色が重ね合わされています。ヤマトコトバで音色の音(ネ)とは、あらゆる生物・無生物が発した音声で、聞く側の心を動かす情緒的なものをあらわし、単純に物理的な音声を指す音(オト)ということばと区別します。色(イロ)は、心惹かれる美しい彩色や容色、さらに気配、兆し、風情、情趣などの感覚までを広く含みあらわします。

 

AdParnassum


◎「かたち」を重んじる精神
日本人は、心動かす「音色」を祭や舞台などの空間で味わい、共有してきましたが、レコードやCDなどの「かたち」になったことの意味は、実はとても大きいと思います。

ヤマトコトバの「かたち」の意味を紐解くと、カタは型で、一定のものをつくる枠のことを指します。チは霊力、生命力など、内にある活力のことをいいます。命(イノチ)の「チ」や力(チカラ)の「チ」と同じです。例えば生きている人の体や顔や物腰、神や仏の姿の他、エネルギーの満ちる豊かな土地のことなども「カタチ」と呼びました。しかし後に、「チ」の意味が薄れていき、「カタ」との区別がなくなったといいます。「かたち」は漢字で「形魂」と書く、と聞いたことがありますが、ヤマトコトバの本来の意味を捉えた当て方だと思います。私は、音(オト)が音(ネ)になり、音色、そして音楽になった瞬間に音霊(おとだま)が宿り、人はそこに「かたち」を見るのではないかと思います。音は流れて目には見えないけれど、色とかたちが確かにある。これは考えたりしなくても、直感的に感じるものなのではないでしょうか。

もしかすると、日本人にとってCDであることやレコードであること自体が問題なのではなく、デジタルメディアでもライブでもなんでもいい、音楽がちゃんと「かたち」であるかどうか。それぞれの音楽にふさわしい「かたち」こそが求められているのではないでしょうか。そう考えると、いわゆる「おまけ」付きCDの人気や、かつてある世代で流行したカセットテープの交換やプレゼントにも納得できるものがあります。


◎音楽の「かたち」色々
ライブイベントが盛り上がるこの頃ですが、カフェやギャラリーなどで楽しむユニークな音楽イベントもあちらこちらで開かれ、音楽の「かたち」も色々です。ちなみに最近興味深いと思ったのは、旅行会社JTBが音楽レーベル「JTB MUSIC」を設立したことです。音楽で観光振興や地域振興を推進するというのが主旨のようですが、旅と音楽を切り口にすることで、新しい音楽の色とかたち、そして空間が生まれそうです。

「音色」や「かたち」という意味深長なことばを背景に音楽文化を積み重ねてきた日本人の音魂(スピリット)は、きっとこれからもユニークな音楽シーンをつくりあげていくはずだと思います。

 

[写真]
 ◎「パルナッソスへ」パウル・クレー Ad Parnassum, Paul Klee
  出典:ウィキメディア・コモンズ
  パルナッソスとは、古代ギリシャで音楽を含むあらゆる芸術の神アポロンとミューズに捧げられた、聖なる山です。色彩、線、かたちを眺めていると次々にリズムやハーモニー、響きなどがあらわれて、限りなく続くメロディーの豊かな海を泳いでいるかのようです。この絵を描いたパウル・クレーは、音楽のもつ無限の豊かさを色とかたちにしました。

 

[参考]

 ◎「古典基礎語辞典」大野晋編 角川学芸出版


[関連記事]

 ◎「整える音楽」
  音とカラダ、方角、惑星や季節、色彩などをつなぐ雅楽と五行思想について。

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」クレーの絵は、まるで宇宙が奏でる永遠のリズムのようです。

 ◎「言葉と音楽のあいだ」
  言葉と音楽のあいだに秘められた甘美な時を求めて、プルーストの世界を覗きます。

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?ヒトが皮膚でも音を聴いていることについて。

2014年10月15日水曜日

趣味の音楽

 

音楽を好きな人たちは数多いけれど、近年CDはなかなか売れず、長い間音楽業界を支えてきた大きな市場が崩れていると言われています。試みに、昨年一年間に一世帯あたりが音楽メディア等の購入に使った金額を調べてみると、全国平均で3,466円でした(統計局家計調査より、単身および二人以上の世帯)。この金額には映像メディアも含まれているので、実際に音楽メディアにかけた費用はもっと少ないかもしれません。これは私が予想していた以上に小さな数字でした。ちなみに、音楽メディア購入も含めた趣味や教養、娯楽に使われている費用の一年間の合計金額は326,187円。習い事、旅行、映画、観劇、ゴルフなどなどです。

ちょっと細かいのですが、同じ家計調査によると一年間でお菓子に67,168円、お酒類に36,086円、服や靴に126,872円、たばこに14,371円、基本的な衛生以外の美容(エステなど)に29,765円、そして使途不明のおこづかいは93,355円ありました(こんな分類もあるのですね)。諸々の費用を足し合わせると、世帯あたり一年間、平均ではありますが70万円くらいは自由に遣い道を決められる趣味嗜好の予算があると考えられます。それなら、もっと音楽にも時間とお金を使ったら楽しいのでは!と思ったりもします(人の勝手なのですが)。ちなみに家計調査では、シュウマイにかける費用は横浜市がやたら高いとか、喫茶に費やす金額は名古屋市がすごいとか、そんな数字も出ていて面白いです。

 

かく言う私は最近、音楽の趣味に文字通り惜しまない出費をしました。音楽アルバムのパッケージをとても本格的につくったのです。それはこの10年位ずっとやりたかったことで、お気に入りの雅楽のアルバム5つを一つのコンセプトのもとに、完璧にデザインされた「うつわ」に包む。ご縁とタイミングを密かに見計らっているうちに、いつのまにか10年が経ちました。

念じて動けば叶うもので、自分の頭に描いていたことを間違いなく形にしてくださると確信できる、素晴らしいグラフィックデザイナーの小磯裕司さんと運良く出会い、音楽は雅楽師の長谷川景光さんにご協力をいただき、本当に形にすることができました。完成したものがこちらの写真です。*中身も是非こちらからご覧ください⇒  小磯裕司氏のHP内

 

GagakuCD01

 

完全に私個人のためだけの制作物なのでもちろん非売品なのですが、実際に完成すると思いがけず「売って欲しい」という声をいただくこともあり、嬉しい驚きです。そのような方とは、何かその方の手による「モノ」と交換しています。

 

振り返ってみると、アルバムのコンセプトを明確にしたり、音楽のうつわに合う素材を考えたり、音楽という「実体」の無いものをどうやって「形」で説明するかを思案したり・・という作業を、お気に入りの音楽を幾重にも堪能しながら楽しむことができ、一つひとつ思い出すたびに何とも愛おしい時間です。また、アルバムづくりを通して様々な出会いもありました。さらにつくってみてはじめて、私が思っていた以上に、雅楽に興味をもっている方が世に潜在することに気が付きました。

あまりにも素敵な時間だったので、今度は録音からつくろうと目論んでいます。昔と違って、いまは音楽アルバムをつくることが限られた人たちだけのものではなくなっています。CDという形にするのも良いし、web上で映像と音楽を組み合わせた作品をつくることもできるでしょう。趣味や考えの合う友人たちが集まれば、年間の各人の「趣味の予算」からいくらかを音楽に割り振って、それはそれは愉しい時間を一緒につくることができます。音楽会を催すのも良いし、音楽アルバムをつくるというのも勿論ありです。好きな音楽や音楽家を深堀りする、音楽を通して一つのテーマを考える、音楽それ自体の魅力を果てしなく探る・・これだけでも充分に素晴らしい時間なのですが、さらにそれをつくり手と受け手がダイレクトに共有し、まさに人生のアルバムの1ページに残せるのですから、こんなに良いことづくめの趣味はなかなか無いと思います。もちろん実現が難しい場合もあるでしょうけれども、やってみると心に描いていたことを形にできるかもしれません。

来年の予算、是非ご検討下さい。


[ご紹介]
 ◎グラフィックデザイナー 小磯裕司氏のHP「KOISO DESIGN」
  現在北京在住の小磯裕司さんは、日本だけでなく中国でもクリエイティブディレクターとして活躍されています。私の音楽アルバムのデザインをご依頼したのは、小磯さんがデザインの圧倒的な技術だけでなく、文字への深い情熱と豊富な知識をお持ちだからでした。文字はときに、言葉では言い表せないことを伝える手段になり得ます。アルバムをひと目ご覧になるとすぐに気づかれることと思いますが、このアルバムでは音楽(雅楽)の世界が「言葉」ではなく「文字」によってあらわされています。そのために、今回オリジナルの書体をつくってくださいました。

 ◎「文字がことばを超えるとき 小磯裕司デザイン展」
  今月から、小磯さんの作品展が北京Town Art Museumで開催されます。
  ・会期:2014年10月23日−11月23日 10:00-18:00 入場無料 会期中無休
  ・会場:Town Art Museum 北京市朝陽区建外SOHO西区15号楼1F1501
   email: townartmuseum@hotmail.com  tel: +86-10-57289856

 ◎雅楽師 長谷川景光氏のHP
  長谷川景光さんは、古代、中世の雅楽の研究家であるとともに、平安朝雅楽の横笛、大篳篥、楽琵琶、そして古代神楽の神楽笛の演奏家でもあります。奈良、平安時代の管絃や舞の流儀を伝承、普及するための活動に取り組まれています。また、平安時代に栄えながら江戸時代半ばに廃れてしまった香道の原点である「薫物香道」の復興、普及活動もされています。

[参考]
 ◎政府統計の総合窓口
  
[関連記事]
 ◎「整える音楽」
  雅楽の音とカラダ、方角、惑星や季節など森羅万象とのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。

2014年10月2日木曜日

太陽系時空間音楽

 

10日ほど前、インドのダージリン地方にある茶農園で収穫してつくられた紅茶が、インド史上最高値で取引された、という記事をみました。価格は1kgあたり1850ドル(約20万円)。「ザ・リッツ・カールトン東京」では、この紅茶がポット1杯45ドル(約4900円)で提供されるそうです。

一番興味深かったのは、この茶葉が高く売れた理由が「宇宙」に関連している、という点でした。茶園の園主によると「6月の夏至の直前の満月の夜、午前12時01分から午前3時までの間に、およそ500人の女性が一斉に茶葉を摘んだ」「満月の晩に摘み取られた茶葉は、特別に優れた茶になる。特に、今年の6月13日の満月の夜は、天体の配置が108年に一度しか訪れないユニークなものだった」。(The Huffington Post 2014年09月22日)


◎宇宙のリズムで育てる

この茶農園では、独特な有機農法でお茶を栽培しているそうです。自然との共生を基礎に、天体の動きを利用しながら最適なタイミングで動植物などからつくられる特別な堆肥を土にすきこみ、また最適なタイミングで収穫をするというもの。

新しいコンセプトのようにみえる“宇宙的有機農法”ですが、特別めずらしいものではありません。農家にはもともと経験的に積み重ねられてきた知恵があり、日々の農作業と暮らしの中には経験の結果として、宇宙と調和したトキ=暦が自然な形で伝承されてきました。日本では、奈良時代に中国から太陰太陽暦が導入されるよりもはるか昔から自然暦があって、いわば宇宙のリズムで様々な兆しをつかみながら衣食住が営まれていました。江戸時代末期には幕府公認のものだけでも450万部の暦が出版されていて、これほど暦が普及していた国は世界でも珍しいといいます。おそらく、中国から輸入された暦と古来の自然暦に、積み重ねられてきた知恵をうまく組み合わせながら、宇宙のリズムと調和したお茶や野菜をつくっていたことでしょう。


◎古くて新しい暦

最近、二十四節気や七十二候を見直す動きとともに、暦の本を数多くみかけます。自分のライフスタイルに合わせた暦を使う人も増えているようです。ちなみに、私は花や野菜を本格的に育てるようになったことがきっかけで、5年位前からグレゴリオ暦とは違う暦も生活に取り入れるようになりました。次第に、以前よりも日々の月の満ち欠けや「節目」に心が及ぶようになって、自然の「兆し」や風物の「名残り」を意識するようになっただけでなく、自分の新たな時間軸を手に入れたような感覚があります。



◎遥かなトキを、俯瞰する

ところで、最近出逢った暦に「太陽系時空間地図 地球暦」(ちきゅうれき)というものがあります。これは、壮大な太陽系の時空間を1兆分の1に縮尺、A1のポスターサイズで表したものです。太陽を真ん中に、その周囲をまわる太陽系惑星の軌道を円で描いてある、まるいカレンダー。太陽系を俯瞰して眺めることができます。地球の軌道を一周するとちょうど一年です。日々動いている星々と自分(地球)の、変化する位置関係を眺めながら、いまここにいる自分と宇宙はつながっていて、リズムを共にしているという実感が湧きます。それにしてもA1の1兆倍って・・夜空の星を見上げながらため息をついてしまうほどのスケールですが、この時空間を部屋で気軽に体感できるというのがとても魅力的です。

実は、この「地球暦」の時空間地図を音楽にしたものがあります。その名も「太陽系時空間音楽」。

 

太陽系時空間音楽2014


◎惑星が音を奏でる

この音楽をひと言でいうと、太陽系の一年間を譜面に見立て、天文現象を音楽にして奏でたものです。一年を1/10800に縮尺して、1秒=3時間、8秒=1日の速度であらわし、48分40秒で地球の一年の運行が一曲の音楽として再現されます。その音楽が奏でるリズムはヒトの心拍数や呼吸に近い感覚で、地球の動きをカラダで感じられるようになっています。さてその音楽は、いったいどんな音でかたちづくられているのでしょうか?


◎深く、遥かな音

一日の区切りは鈴の“チリーン”の音。また、二十四節気の節目や月の満ち欠けは、太鼓やカネの音で印象的に表現されています。特に楽しみなのが、惑星同士が出会うタイミングに聞こえる、低周波の倍音がうなる音です。少々マニアックなのですが、太陽系の各惑星の平均公転周期が周波数の特性で再現されているのだそう。言葉だけで説明するとちょっと難しそうなのですが、カラダの内側にまで伝わる音の震えに身を任せていると、変化が少しずつ感じられます。


◎2014年の音宇宙

「太陽系時空間音楽」は、2012年以来、毎年発表されています。今年の初夏に発売された「太陽系時空間音楽 OP-004 2014」は、2014年3月21日の春分からの一年間が一つの楽曲になっています。実際のところ、毎年惑星の巡りあうタイミング(太陽系時空間に描かれる地図=譜面)が違うので、その年ならではの音楽ができあがります。2014年の音の特徴は、惑星に派手な動きがないこと。「内に入っていくような雰囲気の時空間」が天文現象の譜面に描かれているといいます。これから次第に惑星の動きが変化しながらムードが高まっていき、太陽と月、そして地球が滅多にない巡り合いをするのが、東京オリンピック開催年の2020年なのだそうです。どんな譜面、どんな音宇宙が描かれるのか楽しみです。

頭のなかを整理したいとき、ひと月の始まりでも終わりでもある新月の日、旅先で自分をリセットするときなどに聴くのがおすすめです。車の中で流してみると、宇宙旅行気分を味わえるかもしれません。

 

[おすすめ]

 ◎「太陽系時空間音楽 OP-004 2014」deepsheeprecords
 ・CD(Amazon)
 ・視聴(SoundCloud)

 ◎太陽系時空間地図 地球暦HP
  
 ◎「太陽系時空間地図 地球暦 2014年度版」HELIOCOMPASS(Amazon)
  太陽系を1兆分の1に縮尺してA1サイズに収められた時空間地図。毎日カレンダーの日付に書かれた数字と曜日を追って生活をしていると、年のはじめから年末に向かってまっすぐに時間が流れていくように思えますが、実際のところ地球は丸く、年月も一日もまるい円を描いて回っています。私たちも星々と共にめぐる宇宙の一部であることを自然に理解できるのが、この地図の最大の特徴。円環する永遠のトキを感じながら過去・現在・未来を考える暦です。ちなみに「太陽系時空間音楽」は、この地球暦からはじまった“feel art helios”というアートプロジェクトの一環で生まれた作品です。

 ◎地球暦facebookページ
  二十四節気や月の満ち欠け、星々の巡り合いなどの「節目」ごとに、そこに秘められた本質的な意味を知ることができます。節目にふと立ち止まって考える、あるいは考えない時間を与えてくれます。

 ◎今後のイベントの予定
  2014年10月25日(土)-11月2日(日)
  「あそび feel art helios #4 太陽系時空間地図 地球暦」
  場所:gallery feel art zero(名古屋)
  地球暦のトークイベントや宇宙座談会の他、音と造形、映像を組み合わせて生まれる“宇宙の音風景”を楽しむライブなど、盛りだくさんの催しです。詳しくはgallery feel art zeroのHPからご覧ください。*イベントの参加は要予約です


[写真]

 ◎「太陽系時空間音楽 OP-004 2014」のCDジャケットより


[参考]

 ◎「和暦日々是好日」LUNAWORKS
  

[関連記事]

 ◎「整える音楽」
  「太陽系時空間音楽」で真っ先に思い出したのが、東洋的な宇宙観を音形にした雅楽です。音とカラダ、方角、惑星や季節など、森羅万象とのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」宇宙が奏でる永遠のリズムを感じながらお読みください。

 ◎「永遠を刻む」
  円環する永遠のトキを刻むインド音楽をご紹介しています。

 ◎「深呼吸と音楽」
  海のリズムと、かつて魚だったヒトのつながり、そして宇宙との切っても切れない関係について書いています。

2014年9月18日木曜日

笑う音楽会

 

心地よく笑う。とてもシンプルなことなのですが、仕事や社交から国際問題に事件、事故のニュース・・ともすると鏡の中の顔は仏頂面で、はっとすることがあります。そんなわけで、意識的に「笑う時間」をつくっています。録画しておいたお気に入りのコント番組をみたり、落語や漫才、吉本新喜劇を観たり。最近の研究では、笑うと疲れにくくなる、癌になりにくい、胎教に良い、など様々な効用があるとのことで、その仕組みが科学的に調べられているそうです。

 

◎リズムと笑い
先日ある対談記事でザ・ドリフターズの高木ブーさんが「笑いにはそれぞれリズムってもんがあって、ドリフの笑いはバンドマンだからこそできる笑いだったんだ。」とか「(コントは)それぞれのリズムにこそ面白さがある。」(「FILT」Vol.70 シコウ倶楽部より)と言われていて、思わず身を乗り出しました。笑いのリズム。そうであれば、リズムつながりで音楽にも笑いがあるはず。

などと考えていてふと、コントユニット・ラーメンズの小林賢太郎氏がソロコントプロジェクトのポツネンとしてNHKの番組で披露していた「御存知!擬音侍 小野的兵衛」(ごぞんじ!ぎおんざむらい おのまとべえ)という、とても原始音楽的(?)なコントを思い出しました。タイトルからして一応時代劇コントなのですが、セリフは一切なくて映像と「ガラガラ」「ササッ」「ギロリ」「カチーン」「ムカッ」などの擬音語(オノマトペ)だけでストーリーが進行してきいます。時代劇に必須の殺陣シーンでは、なんと主人公侍の小野的兵衛と敵役は一切映らず、脇役だけが画面上にゾロゾロいます。視聴者は脇役のリアクションと擬音語で殺陣をイメージするのです。映像が旋律で擬音語が拍子といった趣きで、淡々としながらも間の抜けた擬音語の調子がなんとも可笑しく、ポツネン独特のタクトが効いていました。そして、これは音楽にとても近いコントかもしれないと思いました。

 

◎笑いの起源
何気なく「お笑い」などと呼んでいますが、笑いとは一体何で、どこから来たのでしょうか。調べてみると、れっきとした由来がありました。古代漢字の研究で有名な白川静氏によると「笑」という漢字は、巫女が両手をあげて笑いながら舞い踊り、神を楽しませようとする様子をかたどったものなのだそうです。日本各地で、神を祭った儀式歌舞に笑いが欠かせないものだったという例が数多くあることから、笑いは古代かなり重要な要素となっていたようです。「日本書紀」にも、古くから神に酒や土地の産物を献上する時には歌い、笑ったということが記録されています。

なぜ笑いを神に捧げたのかというと、それは古代の人々が最も恐れた自然現象の一つである雷に理由があります。民俗学者の柳田國男によると、雷とは「神鳴り」で、その音は天の神様の笑い声と考えられていました。地上の人々は、何よりも恐るべき目に見えない神を敵にしないよう、ご機嫌を取るために笑いを奉納し、安穏を祈りました。神という漢字の「申」は稲妻をかたどった象形文字からきているそうです。それにしても、神社ではお賽銭の小銭をなるべく派手な音がするようにたくさん投げるべしとされているし、拝殿には大きな鈴がぶら下がっているし、神楽では巫女が手に鈴を持って舞います。鈴の音を通して神とつながるそうですが、そこへさらに笑いもついてくる。こうして考えてみると、神と人との交わりは、目に見えない音が魂になっているようです。

 

画図百鬼夜行 木魅 鳥山石燕


◎日本最古の笑い話
笑い話の最も古いものは712年に成立した「古事記」に出てきます。あるとき、太陽のようにこの世を明るく照らす天照大神(あまてらすおおみかみ)という女神が、もめごとがあって天岩戸(あまのいわと)という場所に隠れて出てこなくなってしまいました。世を照らす女神がいないので世界は真っ暗闇に。さて困ったと八百万の神々が集まって悩んでいたところ、天宇受売命(あめのうずめのみこと)という女神がお立ち台の上にあがって裸踊りをし始めます。それを見た八百万の神々はどっと笑いました。その騒ぎを天の岩戸の中で聞いていた天照大神は、外の様子をちょこっと覗き見します。すると、戸の外側にいた手の力の強い天手力男神(あめのたぢからおのかみ)という神が天照大神の手を引っ張って外へ出し、岩戸の中に戻れないようにしました。天照大神が出てきたので、世界にはふたたび光が戻ってきました。そのとき光が神々の顔面を白く照らした、つまり「面」が「白」くなったということから、「面白い」という言葉が生まれたそうです。天宇受売命と言えば、テレビ番組「新婚さんいらしゃい!」でおなじみ、落語家の桂三枝師匠が二年前に「六代桂文枝」を襲名するとき、伊勢の猿田彦神社で導きの神様・猿田彦大神と芸能の神様・天鈿女命(あめのうずめのみこと)に「笑い奉納」をしたそうです。この天鈿女命が裸踊りをした女神、天宇受売命のことです。

 

◎音霊のゆくえ
こんなに大事で、歌と踊りと密接につながっていた「音霊」(おとだま)ともいえる笑いが、どうして古代から現代に至る日本の音楽シーンで連綿と発展して、吉本新喜劇のように幅を利かせていないのでしょうか。その背景の一つには、「音霊」の時代から「言霊」(ことだま)の時代に変わっていったことがあるといいます。

「音霊」の笑いと違って「言霊」の笑いは、古とつながって今に生きています。落語家の桂文珍師匠によると、平安時代の「今昔物語」や鎌倉時代の「宇治拾遺物語」などには、いまの落語のもとになったような話がたくさんあるそうです。また、古代の天邪鬼(あまのじゃく)が源流にある平安時代の芸能、千秋万歳(せんず まんざい)では「ボケ」役と「ツッコミ」役がちゃんとあって、「ボケ」役は真面目なセリフの意味を取り間違えることで笑いを取ります。まるで漫才コンビの「ナイツ」みたいです。このように「言霊」の笑いは、時空を超えてその面白さを共有しているのですね。

もし「笑う音楽会」がまるで寄席のように、なんばグランド花月のように日常にあったら、是非通いたいです。目には見えない「幸」や「福」。健やかな心と体をもたらしてくれるもの。笑いは、世の中の大勢が決めてかかる、おカタイ規則や形式、慣習を崩したり離れたりすることで生まれるといいます。ふたたび民俗学者の柳田國男の言葉をかりると「高笑いを微笑にしてくれる」笑いや「本当に静かで朗らかな生活を味わうための」笑いを音楽がもたらしてくれるとしたら、それはいったいどんな音なのでしょう。

“笑う門には福来る”。

 

[写真]
 ◎『画図百鬼夜行』より「木魅(こだま)」 鳥山石燕画 1781年頃
 出典:ウィキメディア・コモンズ Licensed under Public domain ISBN 4-0440-5101-1.
 日本では古来、神の末裔が妖怪とされ、各地に伝承があります。目には見えない音でやってくる神の一例がこの「木魅」(こだま)ではないでしょうか。「百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ」。百鬼夜行の画集を眺めていると、妖怪の姿はなんとなくチャーミングで、時に笑いを誘います。古の人々は、目に見えない八百万の神々への恐れをこのようなかたちにして笑うことで、得体の知れない恐怖とも心安らかに向き合うことが出来たのかもしれません。

 

[おすすめの音楽]

 ◎松平敬
  愛媛県出身の、声によるパフォーマー。バリトン。「バリトン歌手」「声楽家」という肩書では説明する側がすっきりしない、声による多彩な作品を演奏している方です。「笑い」にも、声作品の本質的な素材の一つとして向き合っておられます。初めて演奏会へ行ったのは10年以上前のことで、大変な衝撃でした。楽器としての声の自由度と色彩の無限の幅を思い知らされました。演奏会は驚きと心地良い笑いの連続です。変幻自在な声を操って、男から女へ、ノイズから音楽へ。言葉と意味と音と響き・・縦横無尽に繰り広げられる声の旅が約束されます。HPからは、彼のYouTubeチャンネルで様々なパフォーマンスを鑑賞することができます。
 *松平氏のデビュー作「MONO=POLI(モノ=ポリ)」は、つべこべ言わずにとにかく聴いて欲しいアルバムです。彼のたったひとつの声だけでソプラノからバスまでの全声部を歌い、多重録音して重ねに重ねられた恐るべき電脳アカペラアンサンブル。800年に渡る声の時空間を一挙にトリップします。キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に使われた有名な曲、リゲティ「ルクス・エテルナ」は16声部ですが、これも一人です。そして抜群の浮遊感を味わえます。アルバムまるごと一気に5分で試聴できます
 Amazon(CD)
 iTunes

 ◎パトリチア・コパチンスカヤ

  モルドヴァ出身のヴァイオリニスト。初めて彼女のパフォーマンスをみたとき、あっという間に恋に落ちてしまいました。舞台で裸足に赤いコスチュームを纏った姿は、どこか古代遺跡の壁画に描かれている楽師のような雰囲気。彼女の演奏において、古典作品と現代作品の区別をする意味はありません。時空を軽々と超え、作曲家が楽譜に描いた本質を表現してみせようとする熱意が音になって伝わってきます。このコラムの本文で、形式や慣習といった常識が崩れた時に笑いが生まれるということを書きましたが、まさにその体現者です。HPにパフォーマンスの映像がありますが、観客が好奇心いっぱいの微笑みを浮かべて、まるで言葉を知る前の子どものように、無邪気に笑う光景が目に入ります。一方で自由自在なパフォーマンスは、日本のクラシック音楽評論家たちから酷評されてもいます。評論家たちが不愉快になるのは、もしかしたら「あるべき」音楽の姿や基準がぶち壊されるとき、自分自身の積み上げてきた確固たる音楽史や音楽観まで崩壊してしまうことが恐ろしいからなのではないかと想像しています。それを自分で笑うか笑わないかが問われます。

 

[参考]

 ◎「ちくま日本文学015 柳田國男」柳田國男著 ちくま文庫
  *「笑いの本願」を参考にしました
  1875年兵庫県生まれの柳田は民俗学を深めて「遠野物語」などで有名ですが学問は本業ではなく、東大法学部を出てエリート官僚の道を歩みながら、一方で生涯民俗学の研究を続けた人です。

 ◎「落語的笑いのすすめ」桂文珍著 新潮文庫
  桂文珍師匠の慶應義塾大学での講義をまとめた文庫版。文字になっても語りの調子は充分に伝わり、面白くあっという間に読んでしまいます。

 ◎「笑いの日本文化」樋口和憲著 東海大学出版会
  古今の笑いに関する研究や書物が多数紹介されています(文献リストは付いていません)。

 ◎「笑いの世紀」日本笑い学会編 創元社
  日本笑い学会は20年前に設立された学会で、研究機関の専門家だけでなく一般人も学生も参加できるそうです。会員は1000名を超え、全国に支部があって活発な活動をされているようです。この本は学会設立15年目に出版されたもの。このコラムでは笑いと健康にまつわる部分を参考にしました。

 

[関連記事]

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」リズムは笑いとも切り離せないようです。

 ◎「永遠を刻む」
  旋律と時間を自由に操る名人であるインド音楽を取り上げています。「おすすめの音楽」でご紹介したヴァイオリニスト・パトリチア・コパチンスカヤの演奏を聴いていると、何故かインド音楽を思い出します。

 ◎「祇園祭の音風景」
  アジアの祈りの音「コンチキチン」。祭の音は、笑いと最も近いところにあるかもしれません。

2014年9月4日木曜日

言葉と音楽のあいだ

 

長い間、音楽を言葉で説明することができるのか、とか、そもそも音楽を言葉にする必要なんてあるのか、などということを考えていました。そしていったい、言葉と音楽はどんな関係なんだろう?と二つのあいだを行ったり来たり、悶々としていたのです。

そんな気持ちを吹き飛ばした存在が、20世紀を代表する長編小説、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」でした。あの、紅茶に浸したマドレーヌの味が一気に過去の記憶を甦らせる・・という場面があまりにも有名な小説。でも、フランス語原著にして3000ページを超え、日本語訳では400字詰め原稿10000枚にもなる長い長いお話であるとともに、一つの文もとてつもなく長い!ということで、実際には読んだことのない人や、途中で挫折したという人も少なくないようです。


◎「失われた時を求めて」が描くもの
「失われた時を求めて」とは、どんな小説か。100人のプルースト読者に聞いたら、100通りの答えが返ってくるかもしれません。それほどに多様な読み方ができる懐の深い小説なのです。私個人の読み方になってしまいますが、最も面白い要素の一つはきっと、ある時不意に幸せな気持ちになること、ある場所で突然何かを思いつくこと、ある事を目の前にして直感的に感じる「何か」のこと・・そんな色々な「なんとなく」のあらゆる理由を徹底的に、言葉で表現し尽くそうとしているところではないでしょうか。音楽を描いた部分も、美しい音楽を聴いた時の「印象」とか「気分」の裏側にあるものが深く追求されています。せっかくなので、音楽の描写を少しだけ(もちろん、一文が長いですが)ご紹介します。

 

“ソナタが百合のように白い田園ふうの暁に向かって開かれ、その暁の軽やかな純白のあどけなさを引き裂きながらも、白いゼラニウムの上の方で軽くしかもしっかりとまきついて伸びるスイカズラのひなびたアーチにからまるのに対して、この新たな作品は、海のように一様に真ったいらな表面の上で、雷雨の明けたある朝のしみとおるような沈黙と無限の虚空のなかに開始されるのであり、こうしてこの未知の世界は夜の沈黙から引き出されて、バラ色の曙のなかで少しずつ私の眼前に形成されてゆくのだった。” 

「失われた時を求めて」第5篇 囚われの女


菊月 香蝶楼豊国


◎架空の音楽
プルーストは、まるで巧みな盆栽家が樹木で景色を描くように、言葉で音楽を描きました。盆栽家は、未完成の木に別の枝を継いで根付かせて、新たな魅力を開花させます。そして、その樹木がいずれミクロコスモスになるようにと、手を入れていきます。同じようにプルーストは、ベートーヴェンやワーグナーなど実在する音楽家の音を小説の中に散りばめながらも、ヴァントゥイユという名の架空の音楽家を「別の枝」のように登場させて、新たな音の宇宙をつくろうとしました。ヴァントゥイユは架空の音楽家なので、読者の誰にも音の記憶がありません。だから、言葉で音の記憶を新たに形作ることができます。不思議なことですが、例えて言えばベートーヴェンたち偉大な音楽家の音に丹念に言葉を継いで、ついに根付かせることに成功し、とてつもなく美しい音の花が咲いたようなものです。でも、言葉だからこそ描けた理想の、架空の音楽です。


◎言葉から音楽へ
プルーストよりも9歳年上で親交のあった音楽家ドビュッシーは、同じことを音楽の方から考えていたようです。あるときドビュッシーは師から「どんな詩人だったら、君に詩を提供できるのか?」と尋ねられて、こんなふうに答えています。「ものごとを半分まで言って、その夢に私の夢を接ぎ木させてくれるような人です」言葉に音を継いで根付かせる、という逆の道も、そしてその実例もあったのですね。


◎「あいだ」を旅する
こうして私は言葉と音楽のあいだで行ったり来たりすることが悶々としたものではなく、甘美なひとときになる可能性を秘めていることを知りました。おしまいにまた一つ、お気に入りの一節をご紹介します。「旅」にまつわるとても人気のある部分で、以前旅行会社HISのフリーペーパーでも引用されていました(かなり短くして)。*文中のエルスチールとは、ヴァントゥイユと同じく物語の重要人物で、架空の画家です

 

“ただ一つの本当の旅行、若返りの泉に浴する唯一の方法、それは新たな風景を求めに行くことではなく、別な目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙を眺めること、彼ら各人の眺める百の世界、彼ら自身である百の世界を眺めることだろう。そして私たちは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。私たちは文字どおり星から星へと飛びまわるのである。”

「失われた時を求めて」第5篇 囚われの女

 


[写真]
 ◎「風俗吾妻錦絵」から菊月 香蝶楼豊国(四代目 歌川豊国)画
 「失われた時を求めて」の世界は19世紀末から20世紀はじめのパリ。ヨーロッパではちょうど「ジャポニズム」の時代と重なります。そうした背景から、小説の中には「キモノ」「ムスメ」など日本の事物を描写した場面が出てきます。中でも印象深いのは菊の花です。魅惑的な女性を純白の菊に、サロンの調度品に使われている絹は淡いバラ色の菊に、秋の夕靄に沈む太陽がつくる華やかな空は銅色の菊に・・思いもよらない菊の花のたとえが次々あらわれます。菊は19世紀後半にイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンによって園芸花盛りの江戸からヨーロッパに渡り、各地でさらに改良されていきました。プルーストと親しい貴族の邸宅では畑和助という日本人庭師が雇われており、本格的な日本園芸が評判を呼んでいたそうです。浮世絵や漆器などと共に語られることの多い「ジャポニズム」は、美術工芸だけでなく幅広い文化や慣習、世界観にまで深く入り込んだものだったといいますが、植物文化もまた、芸術家たちに大きなインスピレーションを与えていたのですね。
 出典:国立国会図書館デジタルコレクション


[おすすめの作品]
 ◎「レイナルド・アーン ピアノ曲集」ロール・ファヴル=カーン プロピアノ(キングインターナショナル)
  CD / MP3  *あいにくCDは再入荷の見込みなしということですが、全曲視聴可能です
  レイナルド・アーンはプルーストの親友。パリでサロン音楽家として、また舞台音楽や指揮、パリ・オペラ座の音楽監督としても活躍した人物です。このアルバムはブルジョワのサロン・ムードたっぷりで、上流社交界の人々の間で親しまれた絵画、音楽、文学などの流行が巧みに反映され、きっとオシャレなサロンの通たちを沸かせたことでしょう。クールな演奏がよく似合っていると思います。


[参考]

 ◎「抄訳版 失われた時を求めて」全3巻セット マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳 集英社
  *本文引用部分
  巨大な作品の重要な場面を抜き出して粗筋でつないだコンパクト版。はじめは邪道ではないかとも思いましたが、手にとってしみじみと、翻訳者鈴木道彦氏の「みすみす20世紀最高の作品を手に取ることなく終わるくらいなら、せめてこの3冊を繙いていただきたい」「さらに『失われた時を求めて』の全体を読もうという気持を読者に与えるものであってほしい」という強い思いと情熱に深く共感しました。旅先へのお供に良く、お気に入りの場面を気紛れに開けばあっという間に時空を越えた記憶の旅に出られます。そういえば、私は新婚旅行にも持って行きました。全訳版は個人による2大訳が長年読まれてきましたが、近年新しい訳も2つ出始めています。

 ◎「日仏交感の近代」宇佐美斉 編著 京都大学学術出版会
  *菊の花の錦絵に付けた[写真]コメントの参考にしました
  近代フランスと日本の交流がどのような創造的成果をもたらしたのかを、各分野の専門家が文学、美術、音楽の領域を横断して考察。

 ◎「音楽家プルースト」ジャン=ジャック・ナティエ著、斉木眞一訳 音楽之友社
  プルースト作品を音楽で解く一冊。音楽ってなんだろう、言葉ってなんだろうという漠然とした問いにたくさんのヒントを与えてくれます。著者は音楽記号学という学問分野の先駆者で、音楽と言葉の関係をめぐる問題を研究テーマの基本にしているそうです。

 ◎「プルーストと音楽」藤原裕著 皆美社
  文章全体がプルーストや当時のフランス文学世界のムードを色濃く醸し出していて、心底「プルースティアン」に浸ることのできる一冊です。あいにくAmazon含め、入手できるところを見つけることが出来ませんでした。

 ◎「プルーストの花園」マルセル・プルースト著、マルト・スガン=フォント編・画、鈴木道彦訳 集英社
  物語の中で重要な役割を演じる花々の美しい画集であり、詞集でもある大型のアルバム。季節ごとに花と詞を眺めて楽しむことができます。

 ◎「プルースト 花のダイアリー」マルセル・プルースト著、マルト・スガン=フォント編・画、鈴木道彦訳 集英社
  「プルーストの花園」と同じくプルーストの花と詞のコンパクトな本。「ダイアリー」のタイトル通り自分の言葉を書く欄があります。

[関連記事]

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」プルーストが言葉で紡いだ音楽には、彼独特のリズムが宿っています。

 ◎「永遠を刻む」
  プルーストは「記憶」を行き来してトキを自由に操り、意識を頑なな時間から解き放ちました。「永遠を刻む」では、同じく時間を自由に操る名人であるインド音楽を取り上げています。

 ◎「恋の音楽」
  「失われた時を求めて」でも大きなテーマとなっているものの一つ、恋。ここでは、やまとことばと日本の古典音楽で恋を辿ってみました。

 ◎「深呼吸と音楽」
  プルーストは海からも大いにインスピレーションを受けて言葉を紡いだそうです。海のリズムと、かつて魚だったヒトのつながり、そして宇宙との切っても切れない関係について書いています。

 

2014年8月21日木曜日

永遠を刻む

 

京都で生まれ育って東京、そして名古屋に暮らして感じるのは、同じ日本国内でも街によって「時の流れ」が思いのほか異なるということです。特に京都時間と東京時間では大きな違いがあって、東京暮らしを始めてしばらくはしっくりこないものでした。


◎京都時間
一つ印象深いエピソードがあって、東京のある企業に勤めている東京人の知り合いが「京都でひどい目に遭った」というお話です。いつかその方が、仕事で京都の名家と一緒に大きな催しを手がけられたときのこと、当然のことながら最初の打合せに企画書と共にスケジュールをお持ちしたそうです。すると、名家の方がいきなり「こんなもん、要りしまへん。」そのままピシャっとスケジュール表を却下されてしまったというのです。その方は慌てて「でも・・当日の行程表がないと、何かあった時に困りますので・・どうしましょうか・・?」と言うと、名家「そら、塩梅ようしはったら、よろし。」以上で打合せは終わり、催しの担当者は当日を迎えました。東京側の担当者たちは終始手に汗で、最後まで生きた心地がしなかったそうです。「京都人とはもう二度とやらないぞ!」と固く誓っておられました。結果的に、催しは「塩梅よう」まとまったらしいのですが・・。

さすがにこれは極端な例で、現代の京都人が皆揃って「名家」ではありませんが「塩梅」を重んじる、という価値観は京都人共通のものかもしれません。こんな「京都時間」をカラダで知る私が度肝を抜かれたのは「インド時間」と出会った時でした。


◎インド時間
それは、東京で行われた日印国交60周年記念のあるシンポジウムでのことです。私は事前に各登壇者の専門とテーマを確認して、特に興味のあるものは関連の書籍などを読んでから楽しみに出掛けたのですが・・当日行ってみると、何と登壇者の半分以上が別の方に変更され、テーマも予定されていたものとは違うことをそれぞれが好きなように話し始めます。さらに驚いたのは、インドの人たちの時間の感覚です。一応各人に与えられたスピーチ時間があるのですが、誰もそれに構う人はおらず、熱弁をふるい出したら止まらないのです。途中で熱くなって歌い出す登壇者に合わせて会場のインド人たちも歌ったり拍手したり大盛り上がりで、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」の世界そのままです。結局、夕方の5時過ぎに終わるとパンフレットに書いてあったシンポジウムが終了したのは、なんと夜の9時過ぎ(!)。さすがの京都人も敵ではありません。その後はさらに宴があるということでしたが、お昼すぎから続いた熱弁大会で7時間以上を過ごし、すっかり消耗してしまった私はあえなく退却しました。おそらく宴は朝まで続いたのでしょう。

それから数カ月後、懲りずに今度はインド音楽の会に出掛けました。タブラという古い太鼓とサントゥールというこちらも古い弦楽器とを組み合わせた演奏で、私にとっては初めてのインド音楽の生演奏でした。CDではインド音楽を聴いていたので少し知っているつもりでしたが、実際のインド音楽はそれよりも遥かに自由な時間が流れていました。よく言われるように、いつの間にか始まって、いつ終わるともわからず、いつの間にか終わる・・といった具合で、聴いているうちに時計の針で刻む時間の感覚は完全に失います。ちなみに、こちらの演奏会は会場の閉鎖時間がしっかりと決まっていたのと、サントゥール奏者が日本人だったので(?)、比較的きちんと終演時間が守られました。後から知ったことなのですが、かつてインドで音楽会(メヘフィル、カッチェーリ)といえばオールナイトが普通、しかも主奏者と伴奏者の二人が最初から最後まで通し演奏をしたそうです。


◎インド音楽と時間
インドでは、音楽のことをサンギータ(Sangita)と呼ぶそうですが、この言葉はもともと声楽、器楽だけでなく舞踊や演劇を含むものです。シヴァ神はこれらの創始者とされています。その歴史は広く深く厚みがあり、遡れる最も古いインド音楽の文法の源は、遥か4500年前にもなります。

インドの音楽時間は、時計やメトロノームでは決められないものです。古代インドでは、音の動きは宇宙の動きを表すと考えられていました。宇宙の動きとは時間のことで、星々の動きは世界の根源です。特に北インドでは演奏に季節や時間の条件があり、これは古代の占星術をもとにしているそうです。また、音と森羅万象には繋がりがあり、生きもの、色、感情などが非常に細かくインド音楽の音のパターンに組み込まれています。これは以前「整える音楽」で取り上げた雅楽の理論ともよく似た関係で、興味深いです。


◎時を自在に刻む
インド音楽は、基本的にラーガ(旋律)とターラ(拍子)という二つの要素で成り立ちます。ラーガにもターラにも古くから伝わる文法というべきパターンがたくさんあり、組み合わせは無数にあります。

古代の聖者によると、ラーガとは「音列と旋律で飾られた特定の音の形式で、人の心を惹きつけるもの」。ラーガの語源はサンスクリット語のランジ(ranj)で「喜ばせる」といういう意味が根っこにあり、これが転じて「感情」「色」を指す言葉になったといいます。そのようなわけで、ラーガは「人の心を彩る働き」という意味をあらわします。

ターラとは周期的に反復するリズムのパターンで、インドの音楽時間の単位を示すものともいえます。その最も短いものがクシャナ(瞬間)と呼ばれる単位で、クシャナは「重ねあわせた100枚の蓮の葉を1本のピンで刺して」測るそうです。つまり、それほど短い時間だということのたとえです。クシャナは、仏教用語では「刹那」と呼ばれています。

奏者たちは単にラーガとターラの文法を守って演奏するだけでなく、錯綜したリズムと二つが織りなすパターンの応酬で芸と技を試します。最も洗練された演奏は、自然にあらわれる即興性と文法の厳密なコントロールの、絶妙な組み合わせで成り立つといいます。ただし、リズムのコントロールは必須条件であると同時に高度の極みでもあります。古来「時間に関する知識は無限であり、シヴァ神ですらその限りのなさを把握することができない」と言われています。

 

TodiRagini GoogleArtProject


◎インド音楽と美
こうしてみるとインド音楽の謎は深まるばかりですが、実際まったく不思議なものだと思います。厳密で数学的な文法を持っていながらも演奏は極めて即興的で、何が飛び出すか分からない。聴衆のその場の反応こそが、インド音楽の集約的要素とも言われます。彼らは、時間の束縛から抜け出す方法を知っているのです。

インド人にとって美とは、芸術作品の主題から生じるのではなく、その主題によって表現されるものを感じる必然性から生まれるといいます。それは、理屈では説明がつかないインド音楽、メトロノームでは刻めないインドの音楽時間と繋がります。かつて文芸評論家の小林秀雄が「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(無常といふ事)と言ったことを思い起こします。論理で割り切れないもの。


◎永遠なるもの
インドの音楽時間を考えながらそのリズムに身を任せていると、なんだか「生と死、断絶と持続、絶対と相対、衆生と仏陀は本質的に同一のもので、対立は存在しない」という考えを理解したような心持ちになります。宇宙は本質的に同一である、ということを真に認識することは最高の叡智とされ、バーリ語でバーラ、漢字では般若といいますが、このような叡智に至るにも、音楽は重要な役割を果たしそうです。

 

このままではインドの音楽時間をうまく説明しきれていないかもしれないので、おしまいにインドの詩聖ラビンドラナート・タゴールの詩歌をご紹介しようと思います。ここにはまさにインド音楽の時間も音もことばも、永遠なるものへの祈りとなって、美しい絵画の色彩のように満ちています。

 

美しいヴィーナが鳴っている―――
清らかな蓮華のなかに、月影ふりそそぐ夜のなかに、
漆黒の闇のなかに、夜のほの暗さのなかに、
花の甘い香りのなかに リュートの音が聞こえる―――
愛に満ちて 鳴り響いている
心地よい拍子に 踊っている―――
太陽と星も踊り、川と海も踊り、
誕生と死も踊り、世と世の終わりも踊り、
信心深い心も踊っている 世界のリズムにかき立てられて―――

「美しいヴィーナが鳴っている」より


[参考]
 ◎「インドの音楽」H.A.ポプレイ著、関鼎訳 音楽之友社
  長い間、日本語で書かれたインド音楽の解説書といえばこの本だったそうです。初版は1921年、著者はイギリス人宣教師でインドYMCA同盟主事を務めた人です。面白いのは1966年に書かれた翻訳者の序文。「なお著者の経歴に関しては、目下カルカッタに問い合わせ中であるが、未だ返事が到着しないために、ここに紹介できなかったことを深くお詫びしたい」(本文より引用)初版からもうすぐ100年、未だに経歴不明のままなのです・・。

 ◎「インド音楽序説」B.C.デーヴァ著、中川博志訳 東方出版
  著者のB.C.デーヴァはインド南西部にあるカルナータカ州バンガロール出身の研究者で、インド音楽の心理物理学、民族音楽学、楽器学を専門にしつつも自ら声楽家として活動。またインド音響学会やインド音楽学会の創設メンバーでもあり、インド政府の文化使節として東西ヨーロッパ各地を訪問したり、客員研究員として活躍したそうです。何より「インド人がインド音楽をどう捉えているか」を体系的に知りたい場合には最も良い本だと思います。翻訳者の中川博志氏は北海道大学農学部を卒業後にインドへ渡り、バナーラス・ヒンドゥー大学でインド古典音楽理論を専攻するとともに、声楽とインドのフルート、バーンスリーを学んで、日本に帰国後現在に至るまでインド音楽の演奏活動の他、アジア、日本の古典芸能の紹介を目的とした演奏会の企画制作を行っておられるそうです。中川氏も本のあとがきに書いておられますが、インドを源とする仏教の影響を大きく受けながら発展してきた日本の音楽文化を考えると、そこにはインド文化の色を見出すことができます。インド音楽を知ることは、日本の音楽文化の理解にも役に立つでしょう。

 ◎「タゴールの歌」ラビンドラナート・タゴール著、神戸朋子訳 段々社
  *本文中で「美しいヴィーナが鳴っている」を引用しました
  インドの詩聖でアジア最初のノーベル文学賞受賞者でもあるラビンドラナート・タゴールの歌が60篇収められたCD付きの本。生命、春、雨、夜、宇宙、大地、祈り、悲しみ、愛、永遠など、あらゆるテーマが歌ことばになっています。インド人による本、また世界中のインド関連本には、ほとんど必ずタゴールの詩の引用があります。翻訳者の神戸朋子氏はインド国立タゴール国際大学でベンガル語を学び、その後タゴールの直弟子に師事してタゴールの歌曲を学び、研究者となった方です。神戸氏とは運良く直接お話する機会があったのですが、タゴール国際大学のある「シャンティニケタン」という森の地名を呼ぶときには少し目を細めて、できるだけ優しく歌うように、愛しい人の名を口ずさむようにしておられたことが印象に残っています。

 ◎「インドで考えたこと」堀田善衛著 岩波新書
  インド旅行記の古典と言われる一冊。1956年、著者は小説家としてアジア作家会議に出席するためにインドを訪問。その時の、思索の足あとをまとめたものです。日記のような、メモのような書きぶりと構成がユニークです。インドが秘める時間を越えた「永遠」について、西欧や日本と照らしながらしきりに考えを巡らせる場面の一つひとつが印象的です。堀田氏は、インドにいる間に足繁く音楽の催しに出かけたそうです。彼曰くインド音楽は「リズムではモダンジャズに似ていて、音響全体はなんとなくシェーンベルクの十二音階音楽を連想させる」。

 ◎「インド音楽との対話」田森雅一 青弓社
  著者は学生時代からアジア諸国を旅し、雑誌などにフォトエッセイを執筆。この本では、インドを旅しながら演奏や楽器、インド音楽の歴史を実地で貪欲に学び、身を持って体験し、各地で見聞したことが様々丁寧に綴られています。

[おすすめの作品]
 ◎「ヴィーナの女王」ラージェスワリ・パドゥマナバーン ビクターエンタテインメント
  南インドで古くから伝わる弦楽器、ヴィーナの魅力が堪能できる一枚。このCDの最も大きな魅力は、これが「録音のための演奏」の体裁でレコーディングされていないことが、演奏で充分に感じ取れる点です。奏者と録音スタッフは広い部屋で和やかにお茶を飲んだりおしゃべりを楽しみ、ゆっくりと一日を過ごしながら、興趣のおもむくままに演奏。その音が慎重に収録されています。まるでその場に招かれて一緒にお茶と音楽を楽しんでいるかのような、心地良い時が流れます。ちなみに、ヴィーナは芸術と学問の女神サラスヴァティが持つ楽器。日本の「琵琶」の語源とも言われています。琵琶は弁財天が持っていますが、弁財天のルーツはサラスヴァティです。

 ◎「タゴール・ソング」シャルミラ・ロイ 立光学舎
  ラビンドラナート・タゴールが作詩、作曲を手がけた曲集。旋律、リズム、歌、声、伴奏の全てが調和して美しく、インド音楽の力を改めて強く感じます。歌は原語のベンガル語で歌われていますが、ブックレットには日・英の歌詞が掲載されています。

[関連記事]

 ◎「整える音楽」
  雅楽の音とカラダ、方角、惑星や季節などとのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。

 ◎「リズムの本質」
  「リズムの喜びはどこからくるのか」――そんな途方もないことを考えてみました。インド音楽を考える上で、リズムは最重要の要素です。

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?この回では、人が皮膚でも音を聴いていることについて取り上げました。インド音楽はまさに皮膚で聴くべき音楽の筆頭格です。

 ◎「生演奏」
  音楽と息について、また視覚以外で「みる」ことについて、生演奏を通して考えてみました。もともと奏者と聴衆の息の通った場を前提に「生演奏」されるインド音楽とも、大いに関係があります。


[写真]
 ◎インドの細密画から「Todi Ragini」 National Museum, Delhi
 インド古典音楽は絵画とも密接に繋がっています。ラーガと呼ばれる調べにはたくさんの型があり、一つひとつ名前が付いていて、それらの世界が細密画によって表現されているのです。調べの型によって、絵柄や構成が決まっています。例えばこの「Todi Ragini」(トーディ・ラーギニー)の場合、魅惑的なラーガの調べによってあらゆる生きものが惹き寄せられる様子が描かれますが、この型は真昼に演奏されるべきものなので、風景画の中も明るく開放的です。ラーガの調べの型をあらわすTodi Raginiは、擬人化されて絵の中でヴィーナを奏でる女性の名にもなっています。彼女の奏でる調べに鹿はうっとりと聞き入ります。音楽家がTodi Raginiを演奏するときには、この細密画の景色全体を描き出さなければなりません。彼女の魅力、美しい衣、かすかな香と混じり合う花の芳香、そして調べが進むにつれて魅惑された動物たちのざわめき・・。さらに音楽家の描くラーガの情景に聴衆も参加し、ようやく一つの音楽になっていくのです。
 出典:ウィキメディア・コモンズ

2014年8月2日土曜日

万葉植物をいける:姫百合・朝顔(桔梗)・薄

本日は旧暦で文月七日の七夕、笹の節句です。
そこで七夕をテーマに、万葉植物で星空の模様をいけました。姫百合を織姫星に、朝顔は彦星に。絹糸のような雄しべの唐糸草を白鳥座のデネブになぞらえると3つをつなげて「夏の大三角」になります。そして、夏の大三角を横切る天の川はドウダンツツジ。漢字で「満天星」と書くように、まさに天に降る星のように広がる枝葉がぴったりです。さらに、織姫と彦星が晴れて逢えますようにと、叶結びにした五色の紐をぶらさげました。
※唐糸草と満天星(ドウダンツツジ)は万葉植物以外のものです。また、薄には「矢羽薄」を用いました。

 

DSCN1706


◎姫百合

夏の野の繁みに咲ける姫百合の
知らえぬ恋は苦しきものそ

巻第8 大伴坂上郎女

「夏の野の茂みに密やかに咲いている姫百合のように、相手に知られぬ恋は苦しいものです」

小さく可憐な姫百合は、この歌にあるように草の茂みに隠れていてなかなか見つけることができない花です。奈良の曽爾高原などでは自生の姫百合がいまでも咲くといいますが、大伴坂上郎女のみた姫百合の咲く風景は、いったいどのようなものだったのでしょう。

百合は、風に「揺れ」るところから転じて「ゆり」と呼ばれるようになったそうです。咲く花は乙女の微笑みにたとえられ、花笑みの百合と称されます。


◎朝顔(桔梗)
万葉集の「あさがほ」がいったいどの花のことを指すのかには諸説ありますが、桔梗が有力といいます。桔梗は枝を切ると白い乳液が出てきます。古来、母の乳を思わせる乳液の出る植物は、聖なるものとされてきたそうです。

 

あさかほは朝露おいて咲くといへど
夕かげにこそさきまさりけれ

巻第10 作者未詳

「朝顔は朝露を置いて美しく咲くというけれど、夕暮れの露が宿る頃にはいっそう美しさが優るものなのですね」

彦星になぞらえていけた桔梗の蕾はちょうど五角形をしていて、五弁の花びらを五芒星のようにひらいて咲かせます。


◎薄
薄は、風になびいてたわみ、隣の草と重なり交差すると呼び名が「尾花」に変わります。「なびき」「たわむ」草姿は、いきものの交わり、生命の象徴になぞらえられました。また、薄は屋根を葺く材料ともなり、その際には「茅(かや)」「草(かや)」と呼ばれています。さらに茎根は煎じて飲むと風邪に効き、利尿作用もあるので大変有用な植物です。

 

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし
宇治の京の仮廬し思ほゆ

巻第1 額田王

「秋の野で茅を刈り屋根を葺いて宿にした、あの宇治の都の仮の住まいが懐かしく思い出されることです」

額田王と同じく、私にも薄の懐かしい思い出があります。高校生の頃、毎日学校帰りに通っていた和菓子屋があり、ご主人のおじいさまともすっかり顔馴染みでした。ある秋の日、雲行きが怪しい夕方に立ち寄ると、帰りがけに「雨が降りそうですから、薄をお持ちなさい」と言って大きなひと枝をくださいました。帰る道の途中、何故「雨が降るから薄」なのだろう?と不思議に思い、後で辞書を引いてみたところ、古くから薄が屋根の材料に用いられていたという解説がありました。いわゆる茅葺き屋根の「茅」と野原の「薄」は全く別のものだと思っていたので、なるほどといかにも納得したと同時に、そんな洒落たおまじないをしてくださったご主人の温かい心遣いに、何とも言えず嬉しい気持ちでした。薄のおまじないのお蔭で濡れ鼠にならずに家にたどり着いたことを、今でも優しいお菓子の味わいとともに憶い出します。


[参考]
 ◎「万葉の花」庄司信洲 学習研究社

 ◎「萬葉の茶花」庄司信洲 井上敬志 講談社

 ◎「茶花萬葉抄」庄司太虚 河原書店

 ◎「ハーブ万葉集」大貫茂 誠文堂新光社

 ◎「紀州本万葉集 巻第8」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

 ◎「紀州本万葉集 巻第10」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

 ◎「紀州本万葉集 巻第1」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能


[関連記事]

 ◎「万葉植物をいける:桃・枝垂柳・山吹・嫁菜」
  桃の節句にいけたものです

 ◎「万葉植物:三椏」
  万葉植物の中でもなかなか実際に目にする機会のない三椏(みつまた)の花が咲いているのを、奈良の春日大社神苑 萬葉植物園で見つけました

 ◎「万葉植物をいける:菖蒲・杜若・山藍」
  端午の節句にいけたものです

 ◎「万葉植物をいける:茅萱・藪萱草/萱草・笹百合・紫陽花」
  夏越の祓によせて茅萱などをいけました


[写真]

 ◎姫百合・朝顔(桔梗)・薄・唐糸草・満天星(ドウダンツツジ)

2014年7月26日土曜日

万葉植物をいける:茅萱・藪萱草/萱草・笹百合・紫陽花

 

本日は旧暦で水無月三十日、夏越の祓です。

夏越の祓といえば茅の輪潜りです。茅の輪潜りは、年の前半に積もった穢れを取り去り、煩悩を払いのけて身を清め、知恵を授かるという祓い事です。私自身、既に新暦の6月末に京都の松尾大社で茅の輪潜りをして、またその後にも大分の宇佐神宮へ行く機会があって茅の輪潜りをしたので、回数の問題ではありませんが、まず十分な清めの力をいただいたと思っているところです。茅の輪の左右には笹竹が立てられていて、さわさわと揺れる笹竹は秋の訪れを感じさせ、もうすぐ夏の土用明け、立秋も近いことを思い出しました。

そのようなわけで、今回の万葉植物で鍵となるのは茅の輪に使われている「茅萱」です。
※写真は先月入梅の後すぐにいけたものでなので、紫陽花なども含みます。

 

DSCN1515

 

◎茅萱(ちがや)
茅萱は万葉集の中に二十数首登場します。その中で次のような恋の歌があります。

 

戯奴がため我が手もすまに春の野に
抜ける茅花そ食して肥えませ

巻第8 紀郎女


「あなたのために春の野へ行き、私の手で摘んだ茅萱です。どうぞ召し上がってお肥りになってくださいませ」

この紀郎女の歌に対する大伴家持の返事が続きます。

 

我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる
茅花を食めどいや痩せに痩す

巻第8 大伴家持


「我が君に、私は恋をしているようです。せっかくいただいた茅萱を食べてもなお一層痩せていくばかりです」

紀郎女が「春野」と言うように、茅萱摘みの季節は春です。若草が15cmくらい芽生えたところを摘んでかじると甘いそうです。また、根茎は薬草としても活用され、止血、利尿、解熱の効果があるとされています。さらに、生長した葉は刈り取って縄やむしろになりました。

一方、茶花などの花材としては秋の花に分類されています。今回いけた茅萱のように綿状の穂となるのは秋で、これを鑑賞するからでしょう。

 

秋風の寒く吹くなへわが屋前の
浅茅がもとに蟋蟀鳴くも

巻第10 作者未詳


「秋風がうす寒く吹くとともに、我が家の庭の浅茅のもとで蟋蟀が鳴く」

浅茅は、茅萱の背丈の低いものを指します。


◎藪萱草(やぶかんぞう)/萱草(わすれぐさ)
中国では古くから、妊婦が萱草の葉を腰帯として結ぶと陣痛を忘れることができるとされ、その他にも憂いを忘れるおまじないに用いられてきたことから「忘憂草」という異名があるといいます。若葉、茎、根は食用にされてきました。先日いけた時に根の白い部分をかじってみたところ、無花果のごとき甘くしたたるような風味がありました。まだ若葉が出始めた頃の根が美味だそうで、酢みそ和えなどにすると良いと聞きます。中国の「延寿書」という書物には「この草の苗を食べれば人は陶酔したようになる。それ故に忘憂と名付けられた」などと書かれているそうなのですが、このなんとも魅惑的な甘い瑞々しさからそのような名前に至ったのかもしれません。最近偶然にも萱草の花芽を乾物にしたものに出逢いました。台湾の精進料理に用いられるそうで、薬膳スープにすると大変旨味があり、貴重なごちそうでした。

 

萱草わが紐に付く香具山の
古りにし里を忘れんがため

巻第3 大伴旅人

「萱草を私の下紐に付けるのは、香具山のある古い都を忘れようとするためなのです」

この歌は、大伴旅人が九州の太宰府に赴任し、奈良の都が思い出されて仕方がないために、それを忘れようと詠じたものと言われます。


◎笹百合
笹百合は日本原産の百合で、別名さゆりと呼ばれます。万葉集の中に出てくる百合は、関東地方で詠われたものでは箱根百合などの山百合系を指し、中部より西の方では笹百合系を指すとされています。笹百合は古事記に登場し、その伝承は今も奈良の率川(いさがわ)神社で三枝祭(さいくさのまつり)、ゆりまつりとして受け継がれているといいます。

 

道の辺の草深由利の花咲に
咲まししからに妻といふべしや

巻第7 作者未詳

「道ばたの草深い繁みに咲く百合の花のように、たまたま微笑んだからといって妻と決めないでください」

咲く百合を「花笑(=微笑み)」にたとえて、ただ微笑んだからといって妻と呼ばないでください、と女が非難の気持ちをこめて男から贈られた歌に返しています。この歌のたとえのように、百合は「笑み」をあらわす代表的な花です。

今年の初夏には「花笑み」の姿を一目見ようと、恵那峡の方にある笹百合の自生地へ出かけました。笹百合は大変繊細なので、近くにアスファルトの道などができてしまうと、太陽で高温になったアスファルトの熱が土を伝わって根を痛め、ついには枯れてしまうそうです。そのため、多くの自生地で笹百合が減少しているのだそうです。自生地の笹百合はまさに草深い繁みにゆらゆらと揺れて、いかにも花笑みの乙女の姿でした。

 

DSCN1547

 

◎紫陽花
古来、紫陽花というと額紫陽花のことを指し、万葉の人々は萼の内側に咲く藍色の小花が密生して満開になったときの鮮やかな藍色を愛でています。あじさいの「あじ」とは集(あず)が転訛したもの、「さい」は真藍(さあい)の縮まったもの。つまり、真の藍がたくさん集まったものが「あじさい」となります。

 

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを
いませ我が背子見つつ偲はむ

巻第20 橘諸兄

「紫陽花が八重に重なり集まって咲くように、末永く健やかであってください、あなたよ。紫陽花を愛でながらあなたを憶いましょう」

この歌のように「八重咲く」というのは今で言う八重咲きの意味ではなく、花が密集して咲くさまをいいます。古来「お重」や「十二単」など、重ねに美しさをみる文化がありますが、万葉の歌にも「八重」のように重ねの美が多く登場します。

 


夏越の祓の7日後は七夕です。新暦の七夕の頃はお天気に恵まれず天の川をみることは叶いませんでしたが、旧暦の笹の節句である文月七日(新暦8/2)の七夕に星空を期待しているところです。


[参考書]

「万葉の花」庄司信洲 学習研究社

「萬葉の茶花」庄司信洲 井上敬志 講談社

「茶花萬葉抄」庄司太虚 河原書店

「ハーブ万葉集」大貫茂 誠文堂新光社

「紀州本万葉集 巻第8」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第10」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第3」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第7」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

「紀州本万葉集 巻第20」後藤安報恩会 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

[関連記事]
 ◎「万葉植物をいける:桃・枝垂柳・山吹・嫁菜」
  桃の節句にいけたものです

 ◎「万葉植物:三椏」
  万葉植物の中でもなかなか実際に目にする機会のない「三椏(みつまた)」の花を、奈良の春日大社神苑 萬葉植物園で見つけました

 ◎「万葉植物をいける:菖蒲・杜若・山藍」
  端午の節句にいけたものです

[写真]
 ◎茅萱、藪萱草/萱草、笹百合、紫陽花
 ◎笹百合 撮影地:恵那峡

 

2014年7月23日水曜日

生演奏

 

先日、USTREAMの音楽番組「MUSIC SHARE」のライブに出かけました。女の子だけのユニット「惑星アブノーマル」の迫力ある生演奏を、本当にすぐ目の前でみることができ、贅沢なひと時でした。

ライブの魅力は、演奏する人と聴衆の「息が溶け合う」感覚にあると思います。これは、自宅のスピーカーで聴いているとあまり感じないものです。惑星アブノーマルの演奏中も、彼女たちの息の渦と一緒に「肚」の中に吸い込まれるような気分でした。


◎音楽と息
音楽と息には大きな関係があるといいます。ある心理学者の実験によると、もともと吸う息とはく息のリズムが合う者同士は、合奏時によりよく息を合わせることができるそうです。また、演奏家同士、元々の息のリズムが異なっていた場合には、演奏技術が高ければその「息の合わなさ」を克服して息の合う演奏がつくれるし、演奏技術が低ければ、ぎこちない演奏になってしまうという実験結果が出ています。

では演奏家と聴衆の息の関係はどうか、と考えてみると、もちろん様々な要素が関わるはずですが「息の交わり」が両者の間に生まれたときに、その場にハーモニーや快感が生まれるのではないでしょうか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・ハーピストに25歳という若さで就任し、ウィーン・フィル史上伝説のハープ奏者と言われる(しかも美男子)グザヴィエ・ド・メストレは、あるインタビューで興味深い発言をしていました。彼は、演奏家であることの醍醐味が「聴衆を手中におさめる感覚」にある、と言います。これはきっと、彼の意のままに聴衆の気を吸い込み、それを自らのエネルギーにして再びホールいっぱいに音を散りばめ、聴衆を包み込んでしまうことなのではないかと想像します。グザヴィエ・ド・メストレのような魔術師はさておき、元々息の合う演奏家と聴衆の間には、幸福な時間が約束されているのかもしれません。

余談ですが、息が合うとか合わないという話は、音楽だけでなくスポーツやビジネス、また男女の間にも当てはまりそうです。例えば、結婚相談所へ行けば相手に希望する項目を相談所に伝えると思うのですが(私は経験がなく詳しいことは分かりませんが・・)、その項目に「息のリズム」を入れてみてはどうかなと思ったりします。相性の良い人が思いがけず見つかるかもしれませんし、持続的・長期的な関係に向けた相性を占うときの「絞り込み条件」としてうまく機能しそうな気がします。

 

唐辛子


◎息で演奏する
2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を飾った辻井伸行氏の快挙を伝えるニュースが日本中に流れ、一気に話題が沸騰しました。コンクールの裏話に、彼は全盲で英語が話せないため、競技の際に一緒に演奏する人たちや指揮者は当初、どうやってタイミングを合わせようか心配した、という後日談があります。特に、出だしからいきなりオーケストラと同時にピアノの音を出す必要がある曲は、指揮者の動きが見えないのは困るだろうという話になったのです。

しかし、それは全くの杞憂に過ぎませんでした。辻井氏は、共演者の「息の音」を聞いてタイミングを合わせているのでした。演奏の後、指揮者が「視覚によるよりもはるかに容易なコミュニケーションがとれた」と述べていたのが印象的です。私も一度だけ辻井氏の生演奏を聴いたことがあるのですが、演奏の様子をみたときに感じたのは、彼が息を聞くだけではなく、読んでいること。そして、おそらく聴衆のざわめきや息遣いも聴いて、読んでいるのだろうということでした。

 

◎視覚以外で「みる」こと
辻井伸行氏がコンクールで優勝を勝ち取った時の武勇伝をテレビなどでみていて思い出したのは、江戸時代の優れた学者、塙保己一の逸話です。保己一は幼い頃に病で失明しましたが、学問の道を強く志して励み、ついに盲人の役職として最高位の検校となりました。その保己一があるとき講義をしていると、風が吹いてろうそくの火が消えてしまい、弟子たちが暗闇で慌てて騒ぎだしました。すると保己一は「眼が見えるというのは不自由なものですね」と言ったそうです。

生演奏に限らず、様々な場面で「息」をみたり感じたりすることで、また違った発見がありそうです。

 

[参考]

 ◎「息のしかた」春木豊、本間生夫 朝日新聞社
  呼吸の仕組み解説からはじまり、呼吸と心の関係や呼吸が心に及ぼす効果、さらに呼吸と人間関係についての話が易しく紹介されています。また、能、武道、ヨガ、スポーツなど各方面の専門家がそれぞれの呼吸法について述べている章もあり、大変興味深いです。

 ◎「心理学的考察 いきが合う」古浦一郎 北大路書房
  合奏における息の合う合わないに関する実験の他、日本舞踊や書道、武道の呼吸についての実験結果も紹介されています。


[関連記事]

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?この回では、人が皮膚でも音を聴いていることについて取り上げました。


[写真]
 ◎唐辛子
 最新の研究によると、相性の良い隣の植物の音を「聞いた」植物は、単独で生えているときよりもよく育つのだそうです。唐辛子にとってバジルは「良き隣人」で、そばに植えるとより早く発芽し、健やかに生長。一方、ハーブの一種であるフェンネルなどの「悪しき隣人」に囲まれたときにもそれを認識し「互いに影響し合っている」というデータが。植物には様々な「感覚器」があることが証明されているようですが、人間と同じように息が合うとか合わない、という関係もあるのかもしれません。
 (参考:National Geographic News 2013年5月8日

 

[音楽番組MUSIC SHAREのライブの模様はアーカイブで観ることができます]
 惑星アブノーマルのライブ&トークの他に、同じく女の子だけのユニットCharisma.comのトークもあります
 
 ◎惑星アブノーマルHP
 見た目は少女の面影を残す女の子たちのユニットですが、音が出た瞬間にその印象が吹き飛びました。

 ◎Charisma.comHP
 *YouTubeに投稿した動画が話題を呼び、デビューした二人。POPなようでいて毒のある歌詞が持ち味です。

2014年7月9日水曜日

祇園祭の音風景

 

“コンチキチン”。京都では、祇園祭の7月に入るとお囃子の音が山鉾町の界隈に響きます。今年の祇園祭では49年ぶりに「後の祭」が復活、また、1864年の禁門の変で多くを焼失して以来巡行に出ていなかった船鉾が、150年ぶりに「大船鉾」として復興するとあって、ひときわ賑わうことでしょう。

私が生まれ育ったのは京都でも「洛外」に位置する嵐山方面なのですが、6月にもなると「もうすぐ祇園さんのお祭どすなあ」という時候の挨拶が街のあちらこちらで交わされ、少しずつ祭の気分が高まっていくのは街の中心地と同じ。中学、高校生の頃は学校でも「祇園祭、もうすぐやなあ」「宵山、どうする?」と皆、楽しみにしていました。そして、気になる子をデートに誘う方便として、祇園祭は格好の催しなのでした。

今回は祇園祭の“コンチキチン”をテーマに、京都の音風景を旅してみようと思います。種としたのは「平安京 音の宇宙」という本です。著者の中川真氏はジャワガムラン・アンサンブル「マルガサリ(MargaSari)」の代表で、サウンドスケープ、民族音楽の研究者、大学教授として活動されている方です。「平安京 音の宇宙」は初版が1992年春、そして私の読んでいる増補版はちょうど今から10年前の七夕の日に発売されました。


◎祇園祭、1000年を超える歴史
祇園祭の由来は、最も古い記録としては863年の御霊会という怨霊を鎮魂する儀礼に遡るといいます。当時は平安京のあちらこちらで催されていたそうですが、後の祇園祭に直接つながる祇園御霊会は869年に催されたもので、日本66カ国にちなんだ66本の鉾を立てて祭神を祀り、京の男児が神泉苑という庭園に霊を送ったのが始まりとされます。その後、応仁の乱で33年間の中止があったり、江戸時代の大火で多くの山鉾を焼失したり、さらに太平洋戦争で中止となったり・・様々な困難がありながらも町衆の力で連綿と続き、今日に至っています。

檜扇 本草図譜


◎“コンチキチン”という呼び名
「平安京 音の宇宙」で面白いのは、祇園囃子の音が何故、笛の“ピーヒャララ”でも太鼓の“テレツクテン”でもなく、鉦の“コンチキチン”と呼ばれているのか、という素朴な疑問に深入りしていくところです。ところが、祇園囃子の歴史と起源を考証するための資料は非常に少ないのだそうです。


◎祇園囃子の鐘の声
“コンチキチン”の囃子方は、鉦、締太鼓、能管(笛)という編成です。江戸時代に描かれた屏風や図会などを見ても同じで、少なくともこの頃は現代と同じような音響でお囃子が鳴り響いていたと考えられるようです。一方、祇園囃子の鉦と同じような楽器は、雅楽でも鉦鼓と呼ばれ、現在も奏でられています。また、有名な一遍上人の踊り念仏でも、鉦と同じ形のものが法器としても用いられていたことが、当時の絵図からわかるといいます。

古代日本では、管・弦・打楽器が祭祀などに使われていたことが判っていますが、中でも銅鐸などの金属器が儀礼で特別な機能を果たしていたことが明らかになっているそうです。それは、金属精錬の高度な技術をもつ鍛冶師が神と同等の存在とみなされたことや、金属楽器の発する音量と音色、そして余韻といった独特の性質が重なって、金属質の音が超自然との霊的な交わりを可能にする存在になっていったことが背景にあると考えられています。梵鐘はその象徴的なものです。

“コンチキチン”という言い慣わしは、古来人々の心奥に潜む金属音への意識が反映され、受け継がれてきた結果ではないか。そこには祇園会という儀礼に対する根源的な考え方が表明されている、と中川氏は言います。


◎アジアの“ゴングチャイム文化”
銅鐸をはじめ、金属の優れた精錬技術は南方の渡来人によって日本にもたらされました。その南方、とりわけ東南アジアを中心とする地域では、金属の「楽器」としての機能が大きく発展し、音楽がつくり出す時間軸には共通点があるといいます。それは螺旋状に円環する時間構造で、似たような旋律やリズムのパターンが延々と繰り返される音の世界です。様々な金属楽器類の複雑で洗練された音楽と儀礼の融合した文化は、楽器名にちなんで「ゴングチャイム文化」と呼ばれているのだそうです。中川氏は、ゴングチャイム文化圏の南端をバリ、ジャワのガムランだとすると、もう一方の端に、やはり音楽と儀礼が深く関わる祇園囃子の“コンチキチン”がある、と推測しています。

周期性や反復という音楽形式はインドの古典音楽なども思い起こしますが、金属音が超自然的な作用を生む、という意味付けは古代中国に源をもつ青銅器、鉄器など金属器文明の発達した東アジア的文化の産物と見られるのだそうです。


◎遙かなる祇園囃子の音
確かに、宵山で祇園囃子を間近に聴くと、めくるめく音の渦に巻き込まれてしまいそうになります。特に最も人の集まる四条烏丸の交差点では、林立するビルに“コンチキチン”が反響して、しかもそれが夏の京都の猛烈な蒸し暑さと一緒になって、南の島の熱気とガムラン音楽を思わせます。祇園囃子は「雅び」とか「優美」とはちょっと違うのかもしれません。

祇園囃子が格別日本的なものでも京都的なものでもなく「汎アジア的」な音で、はるか海を越えたジャワやバリのガムランの音と、根っこの部分で繋がっている・・アジアの祈りの音が、京都の街々に響き渡っている・・そう考えると“コンチキチン”が、定型の「京都らしさ」からふわりと離れ、その奥に秘められていた遙かなる音の風景を描き始めます。

ともあれ、祇園祭は水を清める水無月祭。そして水の災いは古の出来事ではありません。この夏、どうぞ水が静かに清められますように。


[参考]
 ◎「[増補]平安京 音の宇宙 サウンドスケープへの旅」中川真 平凡社
  物語のはじまりはニューヨーク、マンハッタンの一角に現れる15世紀ニューヨークの森。この小さな森は「TIME LANDSCAPE(時の風景)」という名のエコロジー・アート作品で、植民地以前のニューヨークの原風景を再現するアート・プロジェクトです。中川氏はこの作品に刺激を受け、自らが暮らす京都の原風景を求めて、下鴨神社に広がる原生林「糺の森」へ足を踏み入れ、この森に響く音の風景から音の宇宙へ、コスモスからカオスへと、サウンドスケープの旅をすることになります。

[祇園祭の情報]
 ◎京都新聞 祇園祭特集
  祇園祭にお出かけになる際に役立ちます。

[関連記事]
 ◎「沈黙の音楽」
  モンポウのピアノ曲「沈黙の音楽」と鐘の音について書いています。

 ◎「良い音」
  人はカラダのどこで音を聴くのか?というお話の中で、ガムランのことも引き合いに出しています。

 ◎「整える音楽」
  音とカラダ、方角、惑星や季節などとのつながりをあらわす五行思想をご紹介しています。ちなみに「平安京 音の宇宙」の本文中でも触れられていますが「金属音」は西方、つまり浄土とつながっているところにも、古の金属楽器に込められた意味がありそうです。

[写真]
 ◎檜扇の花
 祇園祭の花、檜扇(ヒオウギ)。古来、邪気払いの花とされてきました。祇園祭の時期には、山鉾町界隈の多くの玄関先におまじないの檜扇が飾られています。葉はその名の通りまるで扇のような形。秋に漆黒の実を結び、深い艷やかな黒色は古代中国の神話に神の使いとして登場する黒鳥になぞらえられ、「ぬばたま」という呼び名で、漆黒の霊力に恋の想いを託した多くの万葉の歌の枕詞となっています。
 出典:「本草図譜 巻20」岩崎常正 本草図譜刊行会
 *近代デジタルライブラリーで閲覧可能

2014年6月25日水曜日

恋の音楽

 

古今、様々なかたちで描かれる恋。今回は、恋を日本の古典音楽で味わってみようと思います。

 

“恋の定義”
偉大な国語学者、大野晋による「古典基礎語辞典」を引くと、やまとことばの「恋」とは、離れていて心を寄せている相手にひかれ、しきりに会いたいという切なる心持ちがつのることを表すといいます。特に時間的、空間的に離れている相手に身も心も強くひかれる気持ちを表し、時には比喩的に、対象が動植物や場所になることもあります。また、「恋ふ」というのは身も心も惹かれ逢いたい気持ちが募る、という意なのですが、この思いは相手に働きかける“主体的”なものではなく、相手によって惹きつけられる“受動的”なものであると、古の人たちは捉えていたそうです。つまり「恋」はすべからく片想いであるべし、ということになります。この定義が心にすとんと落ちる、樋口一葉の恋の歌をご紹介します。

玉すだれかけ隔てたるのちにこそいよいよ人はこひしかりけれ

 

“恋の音楽”
恋の音楽として私が真っ先に思い浮かべるのは「鹿の遠音」という尺八の本曲です。「本曲」というのは江戸時代につくられて今日まで伝わる尺八の古典曲のことです。かつて文部省(現在の文部科学省)共通鑑賞教材に選定されていた曲なので、学校で聴いたことのある方もいらっしゃるかもしれません。雄鹿と雌鹿が奥山で啼き交わす声が、二人の奏者による掛け合いで描かれています。


“笛は時空を超える”
尺八の音は宇宙そのもの、とも言われます。平均律や、それをこわす無調、そしてエレクトロからも全く外れている不思議な音。これは、古今尺八曲の奏者として名高い横山勝也氏の言葉を借りると「生命的エネルギーを呼吸力に充満させ、自己を音化すること」によって鳴り響く音です。

もともと「笛」という楽器は「あの世」「神」「大地」といった人智を超えた存在と交感するための道具として使われてきました。笛を吹く、ということは言わば超能力を得ること。能の舞台で吹き鳴らされる能管を思い浮かべると解りやすいのですが「奏す」というよりも「叩きつける」とでも表現したほうがしっくりくるような笛の音には、時空を一気に変えてしまう強い力があります。「自己を音化すること」とは「自分自身の魂ごと音になってしまう」ことでもあります。


“SFアニメに響く「鹿の遠音」”
名作SFアニメシリーズ・ガンダムの劇場版作品「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙(そら)編」に、深く印象に残るシーンがあります。主人公の少年アムロ・レイが出会った運命の少女ララァ・スンと、宇宙戦争の舞台でふたたびめぐりあい、たがいの魂の叫びを交わす場面です。このシーンでは同時に、主人公アムロの宿命のライバルである青年シャア・アズナブルと、生き別れになった妹セイラ・マスとの「めぐりあい」も絡み合い、それぞれの存在を切に恋う想いが宇宙を舞台に巧みに描かれています。彼ら彼女らは、まるで宙でめぐりあう星々のよう。私の頭のなかでは、いつの間にか「鹿の遠音」が響き出していました。先の横山勝也氏は、「本曲は天空の星のごとく」と言われているので、この場面で「遠音」が鳴り響いたとしても、あながち外れていないような気がします。

ShootingStar


“野沢尚と恋の向こう”
亡き脚本家で小説家の野沢尚氏に「ふたたびの恋」という作品があります。この作品は小説と舞台がほぼ同時に公開されました。どちらも鑑賞したのですが、私の知る限り小説の初版には無いシーン、舞台にだけ用意された主人公の忘れられない言葉があります。

主人公は休暇でオフシーズンの沖縄へ来た「過去の」大物脚本家。そこにかつての恋人が現われる。彼女は「恋愛ドラマの教祖」と呼ばれる売れっ子脚本家で元教え子。リゾートホテルで偶然再会した二人は、共同で公共放送ドラマの脚本のストーリーをつくることになるが・・。

物語の中で二人が脚本を練るシーンの大詰め、主人公が女に「そのドラマに、祈りはあるのか?」と絞るように質します。女はピンと来ない。ここで主人公のいう「祈り」とは、つくり手が受け手に贈るもの。

「いいか、祈りだ。・・このドラマがあなたにとって、素晴らしい時間でありますように。未来への希望でありますように。見た後、周りの人に優しくなれますように・・そういうドラマを受け止めてくれ、がっちりその手でつかんでくれと強く祈らないでどうする。」という主人公に、女は「顔の見えない相手よ。シャドーボクシングよ。万人に対して祈れって言われたって・・。」と返してしまいます。

私は野沢尚氏のいう「祈り」の意味や彼の描いた「恋」について、作品が公開された2003年の夏以来、折にふれて思い出し、考えます。やまとことばの本来の意味である孤独な恋、一方通行の想い。野沢尚氏は「恋」を描きながら、人と人が幾度めぐりあっても、ついに通じ合えない宿命であることを暗示していたのではないか・・とも思われます。

そんなふうに恋の向こうに見えるものを考えると、「鹿の遠音」の音は、もしかしたら「いまひとたびの」と念じる出会いと別れ、それぞれの切なる想い、交わす言葉と言葉・・そしてつまるところ、コミュニケーションの本質をあらわしているのかもしれません。


[参考]
 ◎「古典基礎語辞典」大野晋編 角川学芸出版
  このブログではたびたび登場していますが、やまとことばを知る辞典です。

 ◎「尺八楽の魅力」横山勝也 講談社
  1985年に出版された、横山勝也氏の半生記。「本音」が生々しく書かれていて、氏の深い呼吸に触れるような一冊です。2010年4月21日、横山勝也氏は星になってしまいました。享年75。今頃は新しい銀河の住人となって、相変わらず吹いていらっしゃることでしょう。

 ◎野沢尚公式サイト

 

[おすすめの作品]
 ◎「鹿の遠音/尺八古典名曲集成」横山勝也 横山蘭畝
  企画・販売:TOWER RECORD 制作:BMG JAPAN
  1976年録音のLP2枚組から再編集された古典本曲集CD。父上である横山蘭畝との「鹿の遠音」は父子の魂が触れあい、切なくもぬくもりの伝わる音楽です。

 ◎「ノヴェンバー・ステップス」SONY MUSIC JAPAN(RCA RED SEAL)
  小澤征爾指揮、トロント交響楽団。横山勝也の尺八と鶴田錦史の琵琶をメインとした武満徹「ノヴェンバー・ステップス」他、収録。1967年11月、横山勝也、鶴田錦史両氏は、ニューヨーク・フィル創立125周年記念に世界初演された武満徹「ノヴェンバー・ステップス」でメインとなる尺八と琵琶を務め、西洋音楽中心の世界へ向けて、東洋の圧倒的な音宇宙を強烈に発信することになりました。このアルバムに収録されている「ノヴェンバー・ステップス」は、その世界初演の1ヵ月後に録音されたものです。

 ◎「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙(そら)編」バンダイビジュアル
  SFアニメ「機動戦士ガンダム」のTV放映版を劇場用に再編集した三部作の三作目。

 ◎「ふたたびの恋」野沢尚(単行本) 文藝春秋

 ◎「ふたたびの恋」野沢尚(DVD) パルコ
  野沢尚氏も今は亡きひと。氏自身の「祈り」は多くの人たちに伝わっているはずです。

 ◎「Self-Notes」岩代太郎 キングレコード
  舞台「ふたたびの恋」のテーマ曲「Let Always Be」収録。

 

[関連記事]

 ◎「恋と愛の違いとは」
  恋と愛の違いについて、やまとことばから詳しく書いています。